万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

東日本大震災から6年ー”自分だけ逃げよ”は勧めてはならないのでは?

2017年03月11日 14時17分55秒 | 社会
震災6年、鎮魂の朝=「家族見守って」―被災各地で遺族ら祈り・東日本大震災
 本日、東日本大震災から6年に当たる3月11日を迎えました。忘れもしない日であり、震災で家族や知人を亡くされた方々の悲しみは、6年の月日が経っても癒されず、被災者の方々の心の傷の深さに言葉を失います。

 ところで、震災から6年を前にして、昨日、NHKのニュース9で被災地の今の様子を報じていました。その中で、震災の記憶が風化しないよう期限を決めて石碑の碑文を変えるという取り組みを行っている被災地を紹介していました。今年は、若い人々も参加して新たな碑文を決めたそうなのですが、番組で紹介された碑文に愕然とさせられました。”人の命を助けたいならば、まず自分から(正確ではないかもしれない…)”というものなのです。

 津波という自然災害では、”まずは高台に逃げよ”が鉄則なそうです。しかしながら、津波という災害における避難形態からしますと、高台に逃げる行動を開始した時点で、他の人々を助けることは不可能となります。となりますと、碑文の前節にある”人の命を助けたい”という一節は全く無意味となり(言い訳にしか聞こえない…)、”逃げるに逃げられない人々を置き去りにしてでも、自分一人は生き残れ”という意味とならざるを得ないのです。

 6年前の震災の光景を思い出しますと、津波が背後から迫る中、足の悪い同級生を背負って避難した中学生もおりした。上記の標語調の碑文の”自分から”に従えば、同級生を見捨てて自分だけが真っ先に逃げる行動が奨励すべき行動となります。また、多くの警察官や消防士の方々が、地域の人々を救うために危険を顧みずに避難誘導や救助活動に当たり、殉職されております。このような尊い命の犠牲も、愚かしい行為、あるいは、無駄であったのでしょうか。また、家族や知人を助けるために自らの命を犠牲にされた民間の方々も少なくありません。もちろん、真っ先に逃げることを選択した人々もおりましょうが、中には、自らの命を危険に晒してでも、他の人々の命を救おうとした人々もいるのです。否、犠牲者の中には、一緒に死ねれば本望と考えた人もいたかもしれないのです。

 今後、同様の津波が発生した際に、その犠牲者の多くが自力で逃げることができない幼い子供達、お年寄り、そして、身障者の方々であったしたら、うすら寒さを感じるのではないでしょうか。災害という生死を分ける極限状態にあって、どのような行動をとるのかは、災害に遭遇された方々の自らの人生をかけた決断であるはずです(内面から表出する咄嗟の判断であるかもしれない…)。こうした人生と人生観をかけた決断、即ち、命がけの決断は、一人一人に任せるべきであり、軽々しく”自分だけ逃げよ”と勧めることはできないのではないでしょうか。

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コメント (12)
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