第二次世界大戦後の世界では、植民地主義の終焉もあって国家間における主権平等の原則は当然のこととして受け入れられています。その背景には、国際法の発展によって実現した全ての国家の法人格としての平等化、あるいは、対等化があり、何れの国も、独立国家として国際法上の法人格を有しています。他国と対等の立場で条約等を締結し得るのも、国際法秩序にあって法人格が認められているからに他なりません。法人格とは、自己決定権、即ち、他国から干渉されることなく自国の政策を決定できる独立性と凡そ同義とも言えましょう。
国際法における主権平等の原則が確立する一方で、力学的な観点からしますと、第二次世界大戦後の国際社会は、超大国とそれ以外の中小国との軍事的な格差が拡大した時代とも言えます。先日のブログでも説明したように、例えば核拡散防止条約の成立は、国連安保理常任理事国である中国を含む米ロ超大国、並びに、英仏等に独占的な核保有権を認めていますし(何れの核保有国も核兵器禁止条約に非加盟…)、ハイテク兵器が開発されている今日では、軍事テクノロジーの格差は広がる一方です。パワーバランスは極少数の軍事大国に大きく傾き、超国家と軍事同盟を結ばない限り、中小国が自力で自国を防衛することは著しく困難となったのです。
かくして、今日の国際社会は、国際法においては主権平等の原則が謳われながら、軍事力において超国家が君臨するという歪で非対称的な世界が出現しています。このことは、法や合意ではなく、力のみを信じる暴力主義国家が現れた場合、主権平等の原則に基づく国家間の対等性は脆くも崩れ去ることを意味しています。そして、ロシア軍によるウクライナ侵攻こそ、ロシアという暴力主義国家によって、人類がその優れた知性によって築いてきた国際法秩序が問答無用とばかりに破壊された瞬間であったともいえましょう(もっとも、ロシアにせよ、中国にせよ、国際法秩序の破壊行為はこれが初めてではない…)。
そしてここに、今日、法秩序を基盤とした平等原則が暴力主義によって無残にも打ちのめされた場合、どうすべきなのか、という問題が提起されることとなります。同問題に対する解決アプローチとしては、およそ二つの方向性があるのかもしれません。その一つは、あくまでも主権平等の原則の遵守をロシアに訴え、ロシアの行動を変えさせるというものです。西側各国が着手している経済制裁などはこの路線に沿った対応とも言えましょう(もっとも、ロシアは、これまで西側に輸出してきた自国産のエネルギー資源を中国に売却する可能性が高く、制裁効果は危ぶまれている…)。
もう一つは、軍事力においても諸国間の関係が対等となるように、ロシアではなく、他の諸国、否、国際社会が従来の安全保障体制を変えるという選択肢です。大国も小国も軍事力において対等となるなど、一見、不可能なように思えます。国家間の間には、地理的条件のみならず、科学技術のレベルをも含めた国力差というものがあるからです。しかしながら、真剣に検討するに値する選択肢があるとすれば、それは、全世界の諸国による同時的な核武装なのかもしれません。イランや北朝鮮等は、核拡散防止条約の’抜け駆け’によって核武装を実現しようとしましたが、これらの諸国は、軍事的弱小国、あるいは、経済的な最貧国であっても核開発やその保有を仄めかしただけで、超大国と対等に渡り合える可能性を示しています。条約を誠実に順守している善良な国家の安全が保障されない一方で、条約違反の国家の安全が確保されている現状は、理不尽としか言いようがありません。
今日、核廃絶が人類の目指すべき目標とされている最中にあって、全ての諸国による核武装を主張しようものなら、即、危険人物、あるいは、悪人扱いされてしまいそうです(私も含めて…)。しかしながら、ウクライナ危機が’暴力の勝利’があり得る現実を人類に突きつけている以上、力における諸国間の対等性を追求することが’悪’であるとは言い切れないように思えます。刀狩をしてしまいますと、暴君が出現しても最早抵抗する術はありません。否、抵抗手段がないことを見越して、暴君はさらに悪を極め、より侵害的な行動に出ることでしょう。暴力主義国家に対する正当防衛の手段は、それが核の抑止力であっても、何れの国家に対しても等しく認められるべきなのではないかと思うのです。皆さま方は、どのようにお考えでしょうか。