昨日3月21日に、日本国の岸田文雄首相がウクライナを‘電撃訪問’したとするニュースが速報として報じられました。G7の構成国にあって日本国の首脳のみが唯一、ウクライナを訪問していなかったため、政府としては、前々から機会を窺っていたようです。その一方で、ウクライナ紛争への深入りを警戒する国内世論もあり、実現は困難との見方もありました。結局、岸田首相は、隠密行動により‘電撃訪問’を実現したのですが、この訪問については、幾つかの問題があるように思えます。
第一に、情報を遮断した上での電撃訪問という形態では、国民世論は、完全に無視されます。ウクライナ紛争は、第三次世界大戦へと拡大するリスクを抱えた紛争ですので、今般の岸田首相の訪問は、後世にあって歴史を振り返ったときに、日本国の運命を決定づける転換点となる可能性があります。日本国民の多くも、同リスクに既に気がついております(ネット上の世論調査では、評価しないが過半数を上回っている・・・)。かくも重要な決定を、首相の一存で決定したとなりますと、日本国の民主主義は殆ど機能していないこととなりましょう。せめて、国会による事前承認を要したのではないでしょうか。
同国会による事前承認については、これまで、首相が外国を訪問する際の慣例となっていたそうです。2月下旬の時点では、野党の立憲民主党の泉健太代表もその必要性を主張しておりました。事前承認を要するとなれば、少なくとも国会を舞台として、ウクライナ支援の必要性やその是非などが国民の前で議論される機会となったことでしょう。しかしながら、同じく野党である国民民主党の玉木雄一郎代表は、平時のルールで首相の行動を制約するのは国益に反する、とする見解を示し、電撃訪問を容認しています。しかしながら、そもそも、有事を根拠として首相にフリーハンドを与えることは、国益に叶うのでしょうか。同見解が正しいとなりますと、有事に際しては、戦前のドイツのように授権法を成立されて、一人の‘指導者’に全権力を委ねるのが‘正しい’ということになります。国家の命運並びに国民の生死を左右する有事であるからこそ、国民的なコンセンサスと多くの人々の意見を取り入れた上での慎重な判断が必要という見方もあるはずです。
‘電撃訪問’、否、有事における権力集中は、首相による事実上の独裁を意味しかねず、かつ、不可逆的な既成事実が造られてしまいます(改憲の課題とされる非常事態条項にも関連する・・・)。同方法が、民主主義国家に相応しいのか、と申しますと、そうとは言えず、たとえ他のG7諸国の首脳が同様の方法を選択したとしても、NATO加盟国でもない日本国は、これに倣うべきではかったように思えます。
第二に問われるのは、首相によるウクライナ訪問は、秘密裏に敢行する必要があったのか、という疑問です。先述したように立憲民主党と国民民主党の代表間での応酬に際しては、前者に対して紛争地帯への訪問に伴うリスクを考慮すべきとする多数の批判が寄せられたそうです。しかしながら、首相の命に拘わるほどに危険であるならば、紛争地帯に首相が出向くこと自体が間違った判断となりましょう。また、ロシアが、日本国との決定的な決裂を覚悟してまで、岸田首相の暗殺を企てるとも思えません。否、同訪問が、ロシア側に対日開戦の‘チャンス’を与える事態ともなれば、今般の電撃訪問が日本国の国益を著しく損なうことは明らかです。マスメディアの多くは、事前の情報漏れを問題視していますが、議論の焦点が誘導的にずらされているように思えます。
第三に挙げるべき点は、自民党の茂木敏充幹事長の説明です。同幹事長は、「G7広島サミットで、ウクライナ情勢・ウクライナ支援が大きなテーマとなるなかで、岸田総理がキーウを訪問しゼレンスキー大統領と会談し、直接現地情勢を確認することは、大きな意義があると考えている」と述べています。‘現地情勢’とは、本人が直接に訪問しなければ、知ることができないのでしょうか。リアルタイムで戦場の様子を全世界に発信し得る時代にあって(何故か、戦場の動画は発信されていない・・・)、敢えて本人が現地を訪れる必要性は著しく低下しています。しかも、ゼレンスキー大統領自身が、国際会議等にリモートで参加したり、ビデオも積極的に活用しています(相手国の首脳に対して自国への直接訪問を求めたとしますと、リスクを一方的に負わせるのですから、この態度はあまりにも傲慢・・・)。また、現地に足を踏み入れたとしても、ウクライナ側が無制限に視察を許しているわけではありません(北朝鮮のように外国人向けの‘劇場’を造ることもできる・・・)。
以上に主要な疑問点について述べてきましたが、何れも、合理的な説明の付かないことばかりです。真の目的は隠されているように思えるのですが、仮に、G7の結束を示すために岸田首相がウクライナを電撃訪問したのであるならば、それは同首相の独自の判断ではなく、アメリカ、あるいは、グローバル・エリートを自認する世界権力の指示に従っているだけなのかもしれません(第三次世界大戦への誘導?)。そして、外国の紛争であっても、日本国も有事化し、かつ、それが慣例の変更であれ、国内の統治機構に変化が生じるとしますと、これもまた大問題です。今般の電撃訪問を機に、有事における首相の権限について改めて見直し、民主主義国家に相応しい国民のコンセンサスを基礎とした有事における政策決定のあり方を考案すべきではないかと思うのです。