人身売買と言えば、誰もが眉を顰め、人類にはあってはならないものとして批判するものです。奴隷市場が公然と開設され、奴隷達が取引されていたお話を聴けば、それは過去の野蛮な時代の悲劇として、誰もが奴隷になりかねない時代に生きた人々に深い同情を寄せることでしょう。今日では、人を売買することは、売る側が自分自身であったとしても犯罪であり、法律によって固く禁じられています。人身売買の禁止は、人類の道徳・倫理の精神的成長を示す証とも言えましょう。
ところが、経済の世界を見ますと、実のところ、企業の売買は許されています。人身売買の罪の本質が、他者の自己決定権とも表現される主体性を失わせ、自らの意思に従属させるところにあるとしますと、何故、人がだめで企業が許されるのか、その合理的な説明は難しくなります。どちらも、主体性の侵害、そして他者に対する“殺生与奪”の権限の掌握という側面を含んでいることには変わりはないのですから。主体性喪失あるいは簒奪の問題は、主権を有する国家についても言えるかも知れません。
この素朴な疑問に対しては、経済学者やグローバリストの多くは、今日の自由主義経済の仕組みを解説することで、説得しようとすることでしょう。‘経済とは、市場における企業間競争が成長を牽引しており、賢明な経営によって安価で良質な製品やサービスを消費者に提供した者が生き残る世界である。企業間競争は、経済成長には不可欠であるのだから、勝者となったより優れた企業が市場の敗者となった企業を買い取ることは許されるべき当然の行為である’と・・・。あるいは、吸収・合併や企業間統合のメリットを強調し、‘規模が大きく、技術力を備えた大企業が、競争力に乏しく市場からの敗退が迫っている弱小企業を取り込むことは、一種の救済である。’ホワイト・ナイト‘のようなものであり、買う側と売る側の双方がWin-Winであれば、評価すべきである’と説明するかも知れません。
今般の日本製鉄によるUSスチールの買収計画を見ましても、同案の正当性や合理性は、これらの主張によって支えられています。マスメディア等では、‘経営と技術力に優る日本製鉄が他の企業を合併し、さらなる強敵である中国製鉄企業との競争に備えるのは当然である’、‘USスチールは、日本製鉄が買収しなければ倒産するか、クリーブランド・クリフスに買いたたかれるはずであった’、‘日本製鉄もUSスチールも双方とも合意しているのに、部外者である政府が介入するのは不当である’とする合併推進論が声高に叫ばれているのです。
バイデン大統領の買収禁止の判断の根拠が安全保障上の懸念であったことから、経済合理性を政治的打算が覆したとする論調も強いのですが、外国企業による自国企業の買収に憤慨するアメリカ国民の感情も、その根源を辿れば、自国企業の主体性の喪失にあるのかもしれません。単なる反日感情やアジア系に対する差別意識というよりも、より人類の根源的な自己喪失に対する危機意識に根ざしているかもしれないのです。
このことは、上述したような合併推進派の弁明も、この主体性喪失の危機、否、自己防衛本能を伴う反発の前にはこの説も大きく揺らぐことを意味します。喩え奴隷が自らの生存に必要となる衣食住を奴隷主から提供され、奴隷主によって生かされているとしても、誰も、人身売買や奴隷制を道徳や倫理に叶った正しい行為とは見なさないことでしょう。買われた奴隷自身が、この状態を‘よし’としたとしても。
相互的な自己保存の承認が人類社会に規範やルールをもたらし、悪や犯罪を規定し、統治機構をも出現させた側面に注目しますと、むしろ、何故、経済においてのみマネーで主体を買うことが出来るのか、この疑問が、人類の未来をも左右する問題として迫ってくるのです。果たして企業売買が許されていた時代を、人類が野蛮な時代として嘆く日は訪れるのでしょうか(つづく)。