第二次世界大戦後、植民地主義は終焉したと見なされがちです。確かに、アジア・アフリカ諸国の多くが独立し、植民地は、地球上から姿を消したようにも見えます。しかしながら、植民地は消えたとしても、植民地主義は、別の形で残っているようにも思えます。
植民地主義とは、自国の国境線を越えた領土や勢力範囲の拡張を是とする考え方であり、‘帝国主義’とも言い換えることができるかもしれません。強者の論理であり、この世界では、強い者が弱い者から奪うことが是認されます。その一方で、敗者や弱者の側は、支配される側として虐げられることを意味します。実際に、植民地主義が蔓延していた時代には、宗主国が現地の統治権を奪うのみならず、植民地とされた諸国の領域内にある資源や権益は持ち去られ、一般の住民達もプランテーション等での労働を強制されたり、一方的に搾取される立場に置かれることも珍しくはありませんでした。支配の安定を目的として宗主国から地位や豪奢な生活を特別に保障された極少数の人々は別としても、植民地の人々には過酷な運命が待ち受けていたのです。もちろん、とりわけ人種や民族が違う場合には、宗主国の人々が、植民地の現地住民の人々を自らの国の国民と見なす意識も殆どなかったことでしょう。
しかしながら、やがて人類は、他国の支配を‘悪’とみなすことで合意してゆきます。この流れは、利己的他害性を悪とする人類普遍の理性が、国際レベルにあってようやく形として現れる過程でもありました。侵略や植民地支配等を禁じる国際法も制定され、民族自決並びに主権平等の原則も国際社会において確立するのです。かくして、国家レベルでは、一部を除いて植民地主義は消えたかのように見えるのですが、経済分野では、必ずしも同方向に同調したわけではないようです。経済の基本システムにあって、それがより取引が簡便となる小口の株式の形態であれ、所有権や経営権の売買が合法的な行為とされる以上、経済分野にあっては、‘他国企業’、あるいは、‘グローバル企業’による合法的な支配はあり得るからです。そして、冷戦の終焉によって国境の壁が著しく低下し、もの、サービス、マネー、人、知的財産、情報と言った諸要素が自由に国境を越えるに至ったグローバルな時代とは、企業買収や出資等を介してマネー・パワーが全世界の諸国の隅々まで及ぶ時代を意味したのです。言い換えますと、政治的植民地主義は過去のものとはなったとしても、経済的植民地主義は細々と生き残るどころか、90年代以降は、加速されてしまったとも言えましょう。
グローバル市場における最大の強みは‘規模’ですので、この時期にあって、中小国がひしめくヨーロッパにあって経済統合が推進されたのも容易に理解されます。そして、かつての植民地時代のように産業の発展した国が必ずしも優位となるわけではなく、BRICSや今日注目を集めているグローバル・サウスのように、人口規模の大きな国が競争力を有し、急速な経済成長を遂げるようにもなります。もっとも、BRICSもグローバル・サウスも、その人口規模が評価されて、世界金融・産業財閥とも言えるグローバリストから有力な投資先として選定されたのでしょう。言い換えますと、たとえ過去にあって植民地であったとしても、規模の経済を備えた国の企業が、グローバリストを後ろ盾としつつ、かつての宗主国であった先進諸国の企業を買収するケースも増大してゆくのです。
アヘン戦争以来の歴史を屈辱と見なす中国では、この‘下剋上’あるいは逆転劇に、過去に傷つけられたプライドを埋め合わせ、あるいは、復讐劇として溜飲を下げているかも知れません。その一方で、チャイナ・マネーによって多くの企業が買収された諸国では、国民の対中感情は芳しくはないはずです。そして、USスチールの買収を諦めていない日本製鉄に対して、同社の買収を競ったクリーブランド・クリフス社のゴンカルベス最高経営責任者(CEO)が、太平洋戦争時の真珠湾攻撃を持ち出して「日本は邪悪だ」と罵るのも、敗戦国が戦勝国の企業を買収することに対する怒りにも似た嫌悪の感情があるからなのでしょう。
しかも、これらの感情の根源に、他者による支配を‘悪’と見なす人類普遍の倫理観があるとしますと、日本側も、米国民の国民感情を決して無視は出来ないように思えます。否、グローバルな時代には国境はないとするのが幻想であればこそ、経済における‘企業売買’の許容は、当事者となる企業や政府のみならず、国民をも巻き込む政治的な対立要因ともなりかねないと言えましょう。
このように考えますと、今後、議論すべきは、経済における相互的な主体尊重のルール造りのように思えます。窃盗の被害に遭った人が、その後、窃盗を行なったとしても状況は改善されるわけではなく、治安はさらに悪化することでしょう。USスチールにつきましても、‘何れかに買収されなければ生き残れない’とする主張は、救済目的であれば文句はないはず、とする自己正当化のための弁明であり、一企業としてのUSスチールの独立性や自力再生力を見くびっているとも言えましょう。マネー・パワーが猛威を振るい、政治や社会における人々の自由を侵害しつつある今日、急ぐべきは経済植民地主義を推進している同パワーに対する制御であり、相互の主体性尊重と対等性を原則とする企業間の関係、延いては、企業組織そのものの倫理に即した在り方なのではないかと思うのです(つづく)。