報道に寄りますと、東京大学の中国人学生は、学部と大学院を合わせて3,396人に上るそうです。全在学生の数が凡そ27500人とされていますので、実に12%が中国人学生と言うことになりましょう。日本国政府は、長年に亘り、中国人留学生の受け入れ拡大を政策的に推し進め、今日では、多様性の尊重を旗印にグローバリズムの先鋒と化していますが、この数値は、グローバリズムが如何に一般の国民にとりましては不経済であり、かつ、リスクに満ちているかを実数で表しているように思えます。
グローバリズムを金科玉条の如くに信奉している人々は、この数字をグローバリズムの成果として見なし、頬を緩ますかも知れません。また、大学の国際ランキングでは多様性は重要な評価基準ですので、中国人を筆頭とする外国人の在籍者数の増加は、ランキングアップに血眼になってきた大学側にとりましても、これまでの努力を示す誇らしい数字なのかも知れません。あるいは、リベラリストの視点からしますと、外国人差別がなくなった証とも映ることでしょう。また、より冷めた見方からは、中国人学生が公平・公正に実施された入学試験に合格した結果なのだから仕方がない、とする見解もありましょう(その大半は、留学生ではない・・・)。グローバリズムの時代には、もの、サービス、マネー等のみならず、人の移動も国境を越えて自由化されますので、これらの人々の頭の中では、この12%の数字は、理想に一歩近づいたことを意味するのです。
しかしながら、その一方で、近年、グローバリズムに対する批判の声が高まってきており、今般のアメリカ大統領選挙にあってドナルド・トランプ前大統領が返り咲いた背景にも、反グローバリズムに傾斜したアメリカ国民の世論の後押しがありました。アメリカのみならず、各国とも、政府と一般の国民との間にはグローバリズムに対する評価が必ずしも一致せず、後者は、むしろ、反グローバリズムに傾く傾向にあるとも言えましょう。それもそのはず、一般の国民は、グローバリズム原理主義を押しつけられた結果、理不尽な事態にしばしば直面するからです。
中国人東大生12%の現実も、この理不尽な事態の一つと言えましょう。何故ならば、先ずもって東京大学は国立の大学であり、昨今、独立採算制への動きがあるものの、施設の維持費であれ、研究費であれ、事務経費であれ、多額の国費が投入されているからです。言い換えますと、東京大学の運営を支えているのは、税を納めている日本国民であるにも拘わらず、少なくともその12%は(中国人以外の諸国の出身学生を合わせると%はさらに上がる・・・)、外国人の教育に投じられているのです。
日本国内の人口比からしましても過剰な中国人学生数は、日本国民にとりましては、納得も合意もできない税負担となります。自らへのリターンはほとんどゼロであり、中国人のために税負担を強いられているに等しくなるからです。財政とは、受益と負担のバランスが崩れますと公平性や税徴収の正当性が失われ、一種の‘国民搾取’となりますので、負担者側、つまり国民の不満が高まるのは当然の反応なのです(日本国民には、フリーライダーとして認識される・・・)。中国人学生の増加は他の国公立大学でも見られますので、日本国民の負担は重くなる一方と言えましょう。
しかも、スパイや工作員の潜入による安全保障上のリスクのみならず、今般の日本製鉄によるUSスチール買収計画とそのアメリカ側による禁止措置が、双方の国民感情を刺激したように、それは国民間の摩擦や対立要因ともなります。つまり、理想論が説くようにグローバリズムを進めれば進めるほど人類が一つの世界市民として融合し、人種、民族、宗教、国籍等の違いを越えて皆仲良くになるのではなく、現実に国家という政治的枠組みが存在している以上、逆に、双方の国民の相手国に対する感情を悪化させるケースも大いにあり得るのです。この現象も、グローバリズムのパラドックスの一つなのですが、中国の精華大学の在籍者数の12%が日本人学生や院生によって占められたとしますと、おそらく恐ろしいほどの反日運動や排日暴動に発展することでしょう。
グローバリズムが是認する国境を越えた自由移動には、人類の普遍の倫理・道徳観に照らしますと、侵害性を伴うと言わざるを得ない側面があります。マネーやサービスの移動自由による経済的支配力の浸透のみならず、人の自由移動を介しても、他国の財政や教育・研究資産等を浸食するからです(外国人による日本国の健康保険の利用も問題に・・・)。この由々しき状況を是正するには、先ずは理詰めでグローバリズムの理不尽さを説明し、かつ、相互的に独立性や自尊心を尊重し、権利として保護することの重要性を理解してゆく必要があると思うのです。