万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

NATO参戦を考える-戦争は必ずしも善が勝つとは限らない

2022年10月21日 17時33分49秒 | 国際政治
 西欧では、19世紀末に‘力は正義なり(Might is Right)’という言葉が登場し、日本国でも、ほぼ同時期に戊辰戦争を背景に‘勝てば官軍、負ければ賊軍’という言葉が広がるようになりました。何れも、強い者に正義がある、あるいは、戦争に勝った側に正義があるという意味として理解されております。勝者の側が自らを誇り、敗者を黙らせたい時に使われることもありますが、どちらかと申しますと反道徳、あるいは、没倫理的な意味合いを含みます。

 ‘力は正義なり’という言葉は、昔から語り継がれてきた諺と思われがちですが、1896年に出版されたアーサー・デスモンドの著書『力は正義なり』に初見されるそうです(ペンネームはラグナー・レッドビアード)。同書の特徴は、反道徳、反民主主義、反キリスト教、反ユダヤ主義(反十戒?)にあり、人には自然に備わった理性=道徳的行動の限界があるとする自然法をも否定していたそうです。平たく申しますと、社会的ダーヴィニズムに通じる弱肉強食の世界を肯定し、強者に正義があるであると主張したのです(逆から言えば、弱者は弱いと言うだけで‘悪’となる・・・)。ニーチェはドイツ人ですのでファシズムとの繋がりが強調されますが、デズモンドの存在は、英語圏諸国にありましても、同様の思想が一定の支持を得ていたことを示しています(出身国は詳らかではないものの、デズモンドは、ニュージーランドあるいはオーストラリアに生まれ、これらの諸国のみならず、アメリカやイギリスを渡り歩いていたらしい・・・)。

 デズモンドの思想は、現代人の一般的な倫理観からしますと危険思想そのものです。この言葉を文字通りに受け取りますと、暴力団であっても窃盗団であっても、‘力’を以て勝ちを収めれば、自らの正義を主張することができるのですから。殺人も強盗も暴力も、‘強い’という理由だけで許さされてしまうのです。しかしながら、殺人の罪で法廷に立たされた被告人が、‘私の方が被害者よりも強かったので、無罪です’と主張しても、この言い分は通用しないことでしょう。利己的他害性こそ悪の本質なのですから、勝ち負けは正義の所在とは関係ないのです。

ところが、戦争には、力に優る勝者に正義を与えがちであるとする悪しき側面があります。中国の歴代王朝が編纂を命じた史書が前王朝の悪政や腐敗ぶりを徹底的に糾弾し、自らが開いた王朝を天命を受けたものとして正当化しようとしたのも、‘正義’を得るために他なりません。勝者は、‘書かれた歴史’にあっては常に‘正義の味方’なのです。現実にはその逆であっても・・・(‘歴史は勝者によって書かれる’という諺も・・・)。

そして、戦争にあっては、勝者に正義があるならば、何れの当事国も陣営も、自らが‘悪者’あるいは‘賊軍’として歴史に刻まれてしまわないために、徹底抗戦を試みることでしょう。本日も、ウクライナ紛争への‘NATO参戦の可能性が高まっている’とするWEB記事が掲載されているのを発見しました。アメリカ並びにNATOが核の傘をウクライナに提供したことにより、核戦争を招くことなくNATOは‘安心して’参戦できるとする内容であり、同参戦の結果として、ロシアの‘即時、完全かつ無条件の撤退’の実現、並びに、プーチン大統領の国際軍事裁判所での有罪判決を期待しています。同記事の筆者は、NATOによる集団的自衛権の発動は国際法上において合法的であるとする立場にありますが、ウクライナは北大西洋条約の加盟国ではありませんし、国連憲章における地域的取り決めの利用も、ロシアが常任理事国の一国である以上、安保理理事会が同案に許可を与える決議を採択するとも思えません。

NATOにおける集団的自衛権の発動によって今般の紛争を戦争の延長線上に置くとしますと、通常の戦争と同様に、勝者側に正義を与えることにもなりかねません。言い換えますと、仮に、ロシアが予想に反して核を使用したり、何らかの先端兵器を使用した場合には、同記事の筆者の期待に反してロシア側が正義を獲得するケースもあり得るのです。この問題は、中国に当てはめてみれば、より良く理解できましょう。数十年後には、軍事力において中国がアメリカを追い抜くとされており、仮に、暴力主義国家が戦争で勝利すれば、正義の王冠を被るのは中国なのです。また、ウクライナ側が勝利したとしても、多くの人々が信じているイメージとは逆に、本当のところは、同国に正義があるとは言えないのかもしれません。

ウクライナ紛争を世界大戦に発展させないためには、通常の戦争と‘国際警察活動’を分けて考える必要がありましょう。つまり、仮にNATO軍が活動するとしても、それは、世襲団的自衛権の発動ではなく、また、ウクライナ側に立って参戦するのではなく、あくまでも、中立的な部隊による原状回復を目的とした軍事活動に限定されるべきです。ロシア軍の‘即時、完全かつ無条件の撤退’とは、原状回復に他ならないのですから。同時に、ロシアに対しては、プーチン大統領に国際軍事裁判所への出廷を求めるのではなく、中立公平な機関によるウクライナ側のアゾフ連隊の活動を含めた今般の事態に至った経緯に関する厳正な調査を約束すべきであるかもしれません。現段階では、どちらの側に正義があるのか、正確には判断できないからです(あるいは、真犯人は世界権力であるのかも・・・)。

何れにしましても、戦争というものが力を解決の手段とする以上、悪の側が正義を得てしまう可能性があります。人類がその精神において進化するものであるならば、‘力は正義なり’という野蛮な思考から脱却してゆくべきではないかと思うのです。

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