万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

組織の基本モデルが説明する独裁体制が無理な理由

2024年04月04日 12時13分18秒 | 統治制度論
 世の中には、共産主義というイデオロギーをもって一党独裁体制を正当化する共産主義者や、カリスマ性あるいは卓越した指導力を備えた人物が救世主の如くに登場することを待望する人々がおります。また、近年、別格化された教祖をトップに戴く新興宗教団体の政治介入が公然と行なわれていますし、グローバリストによる隠れた世界支配も独裁体制の典型例と言えましょう。現代という時代にあっても、独裁体制は、陰に日向に蔓延っているのです。こうした独裁体制に心から憧れ、心酔している人々に対して、独裁体制の根本的な欠陥を説得する作業は困難を極めます。言葉を尽くしても、その頑な心を変えることはできないかもしれません。それでは、半ば信仰化した独裁擁護論に対しては、打つ手はないのでしょうか。

 古代ギリシャのポリス世界では、僭主(独裁者)の出現は、市民達が最も恐れた政治的な危機でした。アテネに至っては、僭主となりそうな危険人物を投票によって追放するという、陶片追放制度まで設けて僭主の出現を未然に防ごうとしたほどです。古代人のほうが、余程、一人の人物に公権力を独占されてしまう体制の弊害について熟知しており、陶片追放制度も、それが自由であるはずの市民達の身に迫る現実的な危険であったことをよく表しています。共和制ローマにあっても、独裁官は戦時における臨時のポストであり、しかも、独裁体制の固定化を防ぐために任期は半年に限定されていました。

 一人の人物に全メンバーの生殺与奪の権を握られてしまう恐怖は、古今東西を問わず、人類が経験してきた災難です。世界史の教科書でさえ、近世ヨーロッパの絶対主義体制は、君主が何らの拘束もなく絶対的な権力を振るい得る忌まわしき国家体制として記述されています。理性に照らして常識的に考えれば、独裁体制を擁護する理由も根拠も見出せないのですが、何故か、現代の政治の世界を見てみますと、上述したように右にも左にも独裁容認論が散見されるのです。

 洗脳等によって内面の価値として独裁が心を捉えている場合、確かに言葉で説得することは難しいのですが、一つ、効果的な方法があるとしますと、それは、分かりやすい図で説明することです。“視覚による認識と理解”という別の物事の把握ルートを使ってみるのです。この点、昨日の記事でアップしました組織の基本モデルは、独裁の問題を視覚おいて把握する上で役立つかも知れません。

 如何なる組織にあっても、その健全性と発展性を備えるためには、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価の諸機能を分立させる必要があります。とりわけ、提案、制御、人事、評価の四者は外部に設けませんと、同組織のメカニズムは働かなくなります。この観点からしますと、独裁体制では、組織に備えるべき機能の内、健全性と発展性を保障する重要な外部的な諸機能が、一人の人物に溶け込むことで、消滅してしまうからです。つまり、独裁体制とは、‘決定’と決定事項の忠実な‘実行’の二者のみからなる、極めて単純なるシステムなのです。外部的諸機能の不在は、独裁者による暴走や権力の私物化等を、誰も止めたり、変更させたりすることができず、評価のフィードバックの経路がない以上、組織としての発展性も望めないことを意味します。その仕組みが欠けているのですから。

 ここに分立体制としての基本モデルと独裁モデルとを並べて掲載してみましたが、両者を比較した場合、圧倒的多数の人々が、分立モデルの方を支持するのではないでしょうか。両者を比較してみれば、共産主義者をはじめとした独裁擁護論者の人々でも、独裁者の無誤謬という現実にはあり得ない条件を挙げない限り(この条件を満たすことはできないので、他者を説得することはできない・・・)、基本モデルに対する独裁体制の優位性を論理的に述べることは難しいのでしょうか。


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