古来、人類は、暴力を如何にして封じ込めるか、という問題に頭を悩ませてきました。暴力、即ち、不条理で利己的な力の行使が、罪もない人々から生命や財産を奪い、身体を傷つけ、あるいは、奴隷的な境遇を強いることも多々あったからです。暴力の脅威に晒されている社会では、人々は常時不安に苛まれますし、他者から奪われることが日常茶飯事であれば、個人の努力は無駄になりますし、この結果、経済や社会の発展も難しくなります。
暴力封じ込め観点から人類史を振り返ってみますと、この目的のために多くの人々が知恵を絞ってきた足跡を認めることができます。古代ギリシャの哲学者の説をはじめ、政治理論や思想の多くも、理性に基礎を置く統治のあり方を探求したものです。時にして犠牲を払いながらも努力を重ねてきた結果、今日では、各種の法律や制度が整備され、殆どの争いやトラブルを平和裏に解決するようになったのです。かくして、暴力は、問題解決の手段としては歴史の表舞台から退いたかのように見えるのですが、このことは、必ずしも人類が力の行使を要しなくなったことを意味しません。正戦論とも関連する防衛戦争のみならず、この問題は、圧政に対する抵抗権の如何とも繋がるからです。そして、昨今、日本国で起きた二つのテロ事件は、この問題を考える貴重な機会となったように思えます。
本日の記事では、同テロの自作自演説や謀略説については、一端、脇に置くとしまして、純粋にテロリストの主張に一部であれ理や正義がある場合について考えてみることにします。何故ならば、岸田首相襲撃事件は、安部元首相暗殺事件が‘成功モデル’となったために発生したものであり、山上容疑者の主張をことさら詳細に報じたマスメディアの責任を問う論調が見られるからです(4月20日付けで配信されたダイアモンド・オンラインの「山上被告を「同情できるテロ犯」扱いしたマスコミの罪、岸田首相襲撃事件で言い逃れ不能」など・・・)。
確かに、山上容疑者の主張がメディアを通して国民に広く拡散されたことで、安倍首相並びに自民党と元統一教会の関係が明るみになると共に、両者の関係断絶をはじめ、被害者の救済法が制定されるなど、政治が大きく動く切っ掛けとなりました。同容疑者の行動が、現状を改善する方向に作用したことは否めず、同事件が起きなければ、国民の知らぬ間に、日本国の公権力が新興宗教団体と政党との癒着によって凡そ私物化されていた状態が続いていたことでしょう。もちろん、改善とは申しましても、新興宗教団体と世界権力との関係までは踏み込んでおらず、不十分ではあるのですが、それでも、一定の‘世直し効果’が認められるのです。
それでは、仮に、‘テロに屈してはならない’とする原則を徹底すれば、どのような状態となるのでしょうか。山上容疑者の主張が正しく、国民の多くが支持する場合でも、元統一教会や創価学会といった新興宗教団体と政治との問題は不問に付され、むしろ、一切の改善策を講じることはできなくなるという、馬鹿馬鹿しい結果を招きます。テロリストの要求には一切応じてはならないのですから。
実を申しますと、この問題は古くて新しい問題です。例えば、民主主義が制度化されていない時代には、人々は、暴君に対しては一揆といった力で抵抗するしか術がありませんでした。一揆や抵抗運動の首謀者は民衆のヒーローであり、統治制度が整っている現代に生きる人々であっても、圧政に苦しむ人々の一揆や抵抗運動を‘絶対悪’であるとは断言できないはずです。共産党一党独裁体制を敷き、国民を徹底的に監視している中国において、民主化並びに自由化を求めて国民が暴動を起こす、あるいは、暴力に訴えても、多くの人々は理解を示すかもしれません(しかも、共産革命は暴力が手段・・・)。
政治理論にあっても、抵抗権の問題は、同じく社会契約論に立脚しながら全く異なる政治体制に行き着いたトーマス・ホッブスとジョン・ロックの理論的対立を想起させます。何故ならば、前者は、社会契約によって個人の自然権を主権者に預けた以上、個々の抵抗権は認めないとした一方で、後者は、社会契約を破る暴君が出現した場合には、正当防衛権として人々の抵抗権を認めているからです。
以上に述べてきたように、テロリストの主張に、それが一部であれ理や正義が含まれる場合には、物事は単純ではなくなります。岸田首相襲撃に事件についても、木村隆二容疑者の主張の中には、国民の多くが政治改革(政界浄化)として政治に求めている内容も少なくありません。選挙の立候補に際しての高すぎる供託金の額(制限選挙に近い)、一向に改善されない議員の世襲や縁故、民主的手続きを無視した安部政権や岸田政権の政治運営の手法・・・などは、大多数の国民の共感を呼ぶことでしょう。これらの諸点は、日本国に閉塞感をもたらしており、国民の誰もが早急に取り組むべき課題として認識しながらも、これまでの長い間、特権を守りたい政治家達の自己保身から放置されてきたからです。ところが、上述したように、‘テロに屈しない’態度を貫きますと、これらの制度改革は、‘決してしてはならないこと’となってしまうのです。
この点からしますと、常日頃から世論誘導にいそしみ、たとえ信頼できない存在であっても、マスメディアに事件発生の責任を問うのは筋違いであり、むしろ、動機を詳細に報じないことには、政治改革も始まらないのではないでしょうか。起きてしまったことを消すことはできず、また、悪から善を引き出すことは神様も許していることなそうですので、岸田首相襲撃事件は、政治改革のチャンスとするのが最も望ましい対応のように思えるのです。民主主義を阻害する欠陥を是正する制度改革を実行してこそ、テロという手段を用いなくても、政治を健全化し、主権者である国民のための政治が実現するのですから。