万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

統合の象徴と天皇の人格

2019年11月13日 15時03分56秒 | 日本政治
 戦後における現行の日本国憲法の制定により、天皇の役割は大きく変わることとなりました。GHQの草案を下敷きにしているとはいえ、天皇は政治的権能を有さないとされ、形ばかりの国事行為を残しつつも、実質的な明治来の統治機能を失ったのです。ここに権力と権威が切り離され、日本国の国制は、幕末まで続いていた権力と権威が分離する伝統的な二元体制に戻ったのです。

 明治憲法では天皇に対して統治権を総攬する権能を認めていましたので、当時の国制は一元体制と言うことができます。明治維新に際し、西欧諸国の立憲君主制を模して導入された国制が、戦勝国の手によって明治以前に回帰したのですから、それが意図せぬ出来事であったにせよ、歴史の皮肉とも言えましょう。そして、この二元体制への復帰が天皇と政治における民主主義との調和をもたらしたのであり、この点、現憲法が国民に広く受け入れられた理由の一つなのかもしれません。

 しかしながら、現憲法における二元体制と伝統的な二元体制とは全く同一のものではありません。前者における天皇の憲法上の公的な役割とは‘統合の象徴’であり、宮廷祭祀等を中心とした後者とは違っているのです。それどころか、現憲法はその第20条において政教分離を定めていますので、後者への回帰を拒んでいるとも解されます。乃ち、戦後の日本国は、二元体制に回帰しつつも、過去の伝統的な祭祀上の役割は天皇の私的行事とされ、‘統合の象徴’という極めて曖昧な役割を担うこととなるのです。

 そして、‘統合の象徴’には、予期せぬリスクも隠れていたようにも思えます。統合の手法や形態には様々な類型があるのですが、その一つに、求心型というものがあります。求心型とは、上部において個々から超越した地位に統合の役割を担う‘要’を置く手法です。‘要’の位置には、憲法において統合の役割が明示されてはいないものの、一般的には国旗、国歌、あるいは、自由、民主主義、法の支配、平等・公平といった国民が共有する共通の価値といった非人格的なものが置かれます。ところが、日本国の場合には、憲法の第1条と云う極めて重要な条文において、天皇を以って国家及び国民の‘統合の象徴’と明記しています。つまり、天皇の地位にある人の人格を以って統合の役割を担わせているのです。もっとも、独裁者が好むカリスマ支配と称される形態は、人々が自発的に魅力に満ちた独裁者に従うことで成立する体制もあり、求心型の統合形態は日本国の国制に限ったことではありません。

 象徴が非人格的なものであれば超越性の問題は生じませんが、人格を以って統合の象徴としますと、ここで、一個の人格が他の全ての国民を超越する存在となり得るのか、という問題が生じます。人格を以っての求心型の統合という構図が国制に組み入れてしまいますと、それが世襲であれ、カリスマであれ、普通の人間でありながら超越性を示さなければならいという自然界にあって到底不可能な要求が生じるのです。もっとも、超人の存在を近代科学は否定するのですが、国民の心理状態やそれに対する心理的な操作を用いれば不可能ということはありません。中国や北朝鮮のみならず独裁体制ではしばしばこの手法が採られており、指導者の超越性や神格化が人為的に演出されると共に、国民に対して上からの強力な強制力を以って同調圧力をかけるのです。個人独裁は、しばしばパーソナルカルトを伴うのであり、機能と人格が一体化する前近代的、否、より一層抑圧的な全体主義体制となり易い傾向にあるのです。

そして、この観点から日本国のケースを見ますと、天皇、あるいは、皇族のパーソナルカルト化の徴候は既に現れているように思えます。即位の礼の日に、朝からの雨天にも拘わらず、儀式が始まる間際に晴れ間がのぞき、空には薄らと虹もかかったそうですが(因みに北京オリンピックで試みられたように、人工的に晴れを造ることはできる…)、自然現象であれ、この現象を天からの吉兆として報じる向きもありました。最近のメディアの報道ぶりもどこか中国中央電子台や平壌放送を髣髴させるのですが、特に日本国憲法には政教分離の条文があるためか、皇族各自の人格そのものが信仰の対象であるかの如くなのです。

昭和天皇から3代を数える今日、天皇をめぐる歪は日に日に増すように思え、それが一人の人格を頂点とする求心型であるが故に、海外勢力に操られるリスクも否定できない状況にあります。こうした状況を踏まえますと、政府も国民も、皇位の安定的な継承を論じるよりも、天皇の地位や役割について抜本的な見直しを行う時期に至っているのかもしれません。リスク回避の意味からも、天皇を統合の象徴に据える求心型の構図よりも、日本国の統合は非人格型、かつ、分散的な形態に変えた方が安全なのかもしれないのです。近年、GHQの呪縛を解くべきとの声も聞かれますが、仮に、GHQが基本設計を施した国家体制を変更するならば、天皇の位置づけを明治憲法の一元体制に戻すのではなく、むしろ、それ以前の伝統的な二元体制を踏まえた、より民主主義と調和し、かつ、無理のない形態に変えてゆくべきではないかと思うのです。

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