今般のイスラエル・ハマス戦争は、‘武装政党組織’とも称するべきハマスによるイスラエルに対する奇襲攻撃から始まったとされます。一先ずは、イスラエル側が不意打ちを打たれ、正当防衛権を主張しての開戦となったのですが、この戦争、幾つかの不審点があることは、これまでの記事でも述べてきました。本日の記事では、同戦争の計画性について考える思考材料として、現代の戦争における激化の要因について述べることとします。
国際社会では、侵略戦争は国際法の犯罪とされており、とりわけ、領土の拡張を目的とした軍隊による侵攻や占領は、侵略のわかりやすい典型的なスタイルです。自国内のある一定の地域、例えば一方的な領土割譲要求を受けてきた国境周辺の地域に隣国の軍隊が進軍し、かつ、武力で同地域を支配し始めるともなれば、誰の目にもそれが武力で領土を奪おうとする行為であることが分かります。この場合、個別的であれ、集団的であれ、侵略を受けた国は、即座に自衛権を発動し、隣国の軍隊を力で排除しようとすることでしょう。こうした明確な侵犯に対する領土奪回を目指す戦争は、国際法においても自衛のための戦争として当然に合法性が認められています。そして、同戦争は、侵略軍を国境の外に排除すれば、およそ終息することともなるのです(もっとも、後に、被害国側が加害国側に損害賠償を求めることも・・・)。
その一方で、それが最多であったとしても、必ずしも領土争いのみが戦争の原因ではありません。例えば、軍隊の侵攻や占領を伴わない一方的な武力攻撃や国民への加害行為が戦争の原因となることもあります。前者については、自国領域内からのミサイルやロケット弾による攻撃等がありましょうし、後者については、拉致や強制連行といった行為を挙げることができます。そして特に問題となるのは、主権あるいは統治権の存在や所在そのものが戦争の目的となるケースです。
主権あるいは統治権とは、その国の体制そのものを含意します。何故ならば、国家としてのあらゆる行動や政策の決定は、主権によって法的効力が保障されており、かつ、あらゆる決定権の所在や決定の手続きは、主権の具体的な表現体である憲法おいて定められているからです。このため、他国の行動や政策を自国の望む方向に向けて変えようとすれば、同国の主権を掌握する必要があります。力によって主権あるいは統治権を掌握しようとするならば、相手方を‘無条件降伏’を受け入れざるを得ない状況に追い込むか、あるいは、その存在自体を‘抹殺する’ということになりましょう。
この側面は、主権や統治権をめぐる戦争が凄惨を極める闘いとなることを物語っています。相手国を徹底的に叩きのめし、殆ど壊滅状態にしなければ、無条件降伏の状態に持つ込むことができないからです。あるいは、あくまでも相手方が降伏を拒む場合には、選択肢は‘抹殺’のみと言うことにもなります。言い換えますと、相手国の政権を倒し、国家体制を転換させるには、広域的かつ大規模な攻撃、あるいは、長期戦を覚悟しなければならないのです。しかも、それは、しばしば相手国の首都の破壊や制圧をも伴います。
第二次世界大戦は、この事例の典型例に含めることができるかもしれません。ナチス・ドイツは、ソ連軍の進軍による首都ベルリンの陥落と総統ヒトラーの自決により無条件降伏の状態に至っています。枢軸国の一員であった日本国は、ドイツの降伏後も戦闘を継続させるものの、結局、二度の原爆の投下とソ連軍の参戦という国家滅亡の危機を前にしてポツダム宣言の受託を決意せざるを得ませんでした。戦争末期の惨状に鑑みて、‘短期決戦計画が頓挫した時点で、早期に講和を求めるべきであった’とする‘反省の弁’もありますが、連合国側がこれを望まず、様々なルートで終戦交渉が妨害されたとは、フーバー大統領の回顧録にも記されているところなのです。
このことは、現代の戦争の特徴とも言えるイデオロギーや国家体制、あるいは、価値観の違いを対立軸とする戦争が、総力戦化と相まって多大なる国民の犠牲と国土の焦土化を伴うことを意味します。そして、今日、この側面は、ハマスが事実上ガザ地区の統治権を掌握しており、ハマス政権なるものを成立させている以上、イスラエル・ハマス戦争にも当てはまるのではないかと思うのです(つづく)。