万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

中ロによる北朝鮮への核の傘提供は解決策となるのか―その2

2017年10月16日 16時37分23秒 | 国際政治
中国、あるいは、ロシアによる北朝鮮に対する“核の傘”の提供が、今般の北朝鮮問題に対して有効な解決策となるか否かの判断は、まずは、北朝鮮による核の独自開発が真に“独自”であったのか、それとも、両国、あるいは、何れか一方の国による支援や黙認の下で行われたのか、そのどちらであるのかを見極める必要があります。何故ならば、後者であれば、北朝鮮の核開発は核保有国のコントロール下にあることとなり、解決の有効な手段となり得ますが、前者であるならば、この方法による北朝鮮の核放棄は極めて困難となるからです。

 少なくとも公式には、両国とも、前者、即ち、北朝鮮が勝手に独自開発を進めたとする立場にあります。1994年の米朝枠組み合意では、中ロは傍観者を決め込んでおりました。中ロが参加した2003年8月に始まる六か国協議にあっても、水面下での北朝鮮との折衝は藪の中はありますが、交渉の席にあって、両国が解決案として“核の傘提供”を提案することもありませんでした。中国に至っては、北朝鮮の核保有には強固に反対する姿勢をとりながら、“核放棄の見返り”としての北朝鮮に対する支援策を、むしろ積極的な経済支援の口実している節さえ見えたのです。

また、1995年のソ朝友好協力相互援助条約の破棄が、北朝鮮からの“核の傘”の消滅を意味したとしますと、残るもう一方の中朝友好協力相互援助条約は2001年に更新され、以後20年間、即ち2021年までは有効なはずです。ソ(ロ)朝同盟から類推すれば、中国は、事実上、北朝鮮に“核の傘”を提供しているとも解されます。しかしながら、軍事同盟条約の文脈において、中国が国際社会に向かって、北朝鮮が自国の“核の傘”の下にあると明言したことはないのです。

 両国は、NPTにおいて認められた核保有国であり、核拡散を防止する義務を負っています。日米同盟にも見られるように、核保有国による非核保有国に対する“核の傘”の提供は、核開発に関して強力な抑止力を発揮してきました。北朝鮮の擁護者の立場から、中ロは、しばしば“アメリカは北朝鮮の安全を保障すべし”と主張しますが、抑止力の観点からすれば、中ロが“核の傘”を北朝鮮に提供すればそれで済むはずでした(1995年以前の状態への復帰…)。それにも拘らず、何故、中ロとも北朝鮮の独自開発を黙認した、あるいは、放置したのか、これが最大の謎なのです。

こうした中ロの態度の背景として推測されるのは、(1)軍事同盟を介して朝鮮半島問題に巻き込まれることで、自国をアメリカからの核攻撃のリスクに晒したくない(北朝鮮を見捨てる…)、(2)表向きは無関係を装いながら、対米戦略の一環として秘密裏に北朝鮮に核をもたせ、“鉄砲玉”として利用する思惑があった、(3)北朝鮮の核開発を協力、あるいは、支援しているのは中ロ以外の別の国や国際勢力であるため、中ロとも、現実には、北朝鮮の軍事戦略に介入することができない立場にある…などです。

(1)と(2)の場合には、北朝鮮の核開発問題は、中ロの何れかの決断次第で解決可能であり、両国の何れかが北朝鮮に対して“核の傘”の提供を公式に確約すれば、北朝鮮も、核の廃棄に応じる可能性は皆無ではありません。ただし、北朝鮮に対する“核の傘”の提供という解決策は、過去における自らのNPT違反行為を認めるに等しい、あるいは、北朝鮮に核を保有させるという秘密戦略を放棄せざるを得ない状況に追い込まれることを意味します。このため、たとえ実現したとしても、厳しい国際的批判にも晒されますし、完全、かつ、確実なる核放棄のための措置や査察等の国際的な仕組みを要することでしょう。

その一方で、(3)である場合には、中ロによる“核の傘”の提供という手段に解決を期待することはできません。たとえ北朝鮮が中ロから申し出を受けたとしても、アメリカのみならず中ロに対する牽制手段として利用価値を計算し、北朝鮮は、あくまでも核を保持しようとすることでしょう。

以上に中ロによる“核の傘”提供という解決手段について考えてみましたが、この解決策の行方については、アメリカが中ロに対してこのような提案を行うのか、まずはこの点が注目されるところです。もっとも、今日に至るまで、この案が米中ロの何れの諸国からも提案されてこなかった事実こそが、その実現可能性が必ずしも高くないことを暗示しているようにも思えるのです。

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中ロによる北朝鮮への核の傘提供は解決策となるのか―その1

2017年10月15日 10時00分17秒 | 国際政治
北朝鮮、複数の移動式発射台を移動か 弾道ミサイル搭載
報道に因りますと、北朝鮮は、弾道ミサイルの発射台を移動させる動きを見せており、朝鮮半島情勢は、予断を許さない状況が続いております。こうした中、中ロによる北朝鮮への核の傘の提供が解決策となるのではないか、とする意見も聞かれます。

 それでは、中ロによる核の傘の対北提供は、どのように考えるべきなのでしょうか。北朝鮮による秘密裏の核開発が露見したのは1993年に至っての事ですが、それ以前の核に関連する重要な出来事を時系列的に整理してみますと以下のようになります。

 1953年10月1日 :米韓相互防衛条約発効
1956年 :北朝鮮、ソ連邦との間で核開発協定締結
 1961年 :ソ朝友好協力相互援助条約・中朝友好協力相互援助条約
 1962年 :アメリカ、韓国への核配備完了
 1970年3月5日 :NPT(核拡散防止条約)発効
 1975年9月 :アメリカ、韓国の核兵器独自開発に反対
1976年4月23日 :韓国NPT批准
 1986年12月12日 :北朝鮮NPT批准
 1989年6月 :東欧革命始まる
 1991年9月17日 :南北同時国連加盟
1991年12月25日 :ソ連邦崩壊
1991年12月31日 :南北による朝鮮半島非核化共同宣言
1992年末 :アメリカ、韓国から核兵器完全撤廃

 以上の経緯から読み取れるのは、北朝鮮の核開発はソ連邦の協力の下で行われたものの、1962年に米軍が韓国への核配備を完了し、“核の傘”を提供していることから、少なくともアメリカ側は、北朝鮮が、事実上、ソ連邦の“核の傘”の下にあると認識していたと推測されます(ソ朝友好協力相互援助条約では“核の傘”の提供が含意されていたという…)。冷戦期にあっては、それが心理戦であったとしても、南北両国の間には相互に“核の傘の抑止力”が働いていたこととなります。

 この状況が一変するのは1991年12月25日のソ連邦の崩壊です。ソ連邦崩壊の僅か6日後に、南北両国は、朝鮮半島非核化共同宣言を発表しています。アメリカは、その後、1年足らずで韓国からの核兵器撤廃を完了していますので、おそらく、非核化の背後には、アメリカと新生ロシアとの間に何らかの合意があったものと推測されます。ロシアは、ソ朝友好協力相互援助条約を1995年に破棄し、この時点で、北朝鮮に対する“核の傘”は消滅したと推測されます。もっとも、同条約の破棄が1995年であれば(1991年説もある)、ロシアの“核の傘”が存在していた時期にあって、北朝鮮は、秘かに独自開発を開始していたこととなります(ただし、北朝鮮は、1991年の時点でロシアの“核の傘”が消える事態を察知していたかもしれない…)。

 しかも、韓国から核兵器が全面的に撤廃されたのを見計らうが如く、NPT加盟国の立場にありながら、核保有による朝鮮半島における軍事的優位を確立しようとするのです。この事実は、軍縮は法を悪用する国家にとっては軍拡のチャンスとなる悪しき前例となりましたが、ソ連邦の崩壊と非核化宣言が北朝鮮を違法な核開発に走らせた動機としますと、ここにも目的地と到着地が逆となる忌々しき倒錯劇を見ることができます。(つづく)

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国際社会を危険にさらす“憲法第9条の発想”

2017年10月14日 16時19分46秒 | 国際政治
候補者の6割、改憲に前向き 朝日・東大共同調査
 “憲法第9条の発想こそが平和の敵である”とでも言おうものなら、リベラル派から雨や霰の批判が降ってきそうです。しかしながら、人間社会における安全の実現方法について論理的に突き詰めてゆきますと、この見解は、必ずしも否定はできないように思えます。

 利己的他害性を“悪”と見なす人類の普遍的な倫理観からしますと、強奪を目的とした他者に対する攻撃は当然に“罪”と見なされます。この点は、国内の一般社会のみならず、国際社会であっても変わりはなく、侵略や侵害をあるべき行動規範から外れた犯罪とみなされます。そしてそれは同時に、こうした利己的他害行為に対抗する、あるいは、自己を防御する行為は、“悪”を排除するという意味において“善”である、ということになります。侵害なき安全な社会-国際社会では平和な状態-とは、“悪”を廃してこそ初めて実現するのです。ここに、侵害的攻撃=悪・対侵害防御=善という構図が成立します。

 さて、この構図に照らしてみますと、人類の前には、国際社会における平和=善を実現するためには二つの道があることとなります。第一の道は、全ての国家が利己的侵害行為を行わず、行動規範を誠実に遵守するというものです。全世界の諸国家の善意と自制心に平和を委ねる道であり、このためには、全ての国家が順法精神と高い倫理観を備えた“善き存在”となる必要があります。もう一つの道は、対侵害防御の手段や仕組みを整え、侵害的攻撃を行う国家を徹底的に抑え込む、あるいは、取り締まることです。後者では、悪しき国家が出現する可能性を認めた上での対応と言えます。しかも、得てして侵害には暴力が手段として用いられますので、それ故に、この方法には、平和を維持するための侵害国に対する物理的強制力を要するのです。

 今日の国際社会の現実を見ますと、中国や北朝鮮など、第一の道に背を向けている諸国が存在しています。乃ち、大多数の諸国が第一の道を選択したくとも、現実はそれを許さないのです(仮に将来、全ての諸国が真の意味で民主化、並び、自由化すればあり得るかもしれない…)。そこで残されるのは第二の道となりますが、この第二の道にも、国際レベルにおける普遍的安全保障体制の整備と、個別の国家による単独自衛や同盟による集団的自衛の凡そ二通りの手段があります。現在、何れにあっても、全ての諸国の侵害者に対する防御体制が十分であるのかと申しますと、そうではないのが現状です。前者を制度化した国連のシステムでは、安全保障理事会における常任理事会の拒否権等により、侵害排除を貫徹することができません(特に常任理事国による利己的侵害行為に対しては無力…)。となりますと、各国に残された最後の手段は、個別的自衛か集団的自衛とならざるを得ないのです。

 ところが、リベラル派を中心にマスメディアが吹聴している“平和観”とは、理由はどうあれ、武力の行使を全て“悪”と見なすものです。日本国憲法の第9条が記す基本的な平和観も、武力行使をなくせば平和が訪れるとする単純、かつ、楽観的な発想であり、しかも、憲法の前文は、一つ残らず全ての諸国が第一の道を既に選択したとする前提条件のもとで書かれているのです。しかしながら、前提条件が崩れている以上、この発想では、対侵害防御という“善=平和”を実現する手段までもが、侵害的攻撃の手段としての武力と一緒に禁じられてしまいます。順法精神に欠け、暴力を信奉する中国や北朝鮮の行動を見れば、言葉による説得に限界があることは一目瞭然であり、仮に、こうした諸国が暴力に訴えて侵害行為や脅迫行為に及んだ場合、最早、攻撃を受けた側は座して死を待つしかなくなるのです。

 そして、武力行使を無条件に“悪”と見なす偽りの“平和論”は、暴力主義国家による利己的侵害を助長する結果をも招きます。反撃を受けることなく、自らの目的が達成される可能性が高まるからですから(“戦わずして勝つ”?)。昨今の核兵器禁止条約にも通じる憲法第9条の発想、即ち、善悪の判断を放棄した“無差別戦争放棄論”こそが、暴力主義国家に武力の行使や威嚇のチャンスを与えているとしますと、こうした非現実的な考え方こそ危険思想なのではないかと思うのです。

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核兵器禁止条約よりNPTの方が“まし”な理由

2017年10月13日 11時01分52秒 | 国際政治
「核禁条約不参加は裏切り」ノーベル平和賞のICAN
 今年のノーベル平和賞は、核兵器禁止条約の成立に向けての活動が評価され(2017年7月7日採択)、国際NGOである核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に授与されることが決定されました。しかしながら、既存のNPTと比較しますと、核兵器禁止条約には、以下のような問題点が見受けられます。

 第1の問題点は、核保有国が一国たりとも核兵器禁止条約に加盟していないという、歴然とした現実に基づきます。NPTの場合には、核保有国は、保有の特権が認められる代わりに、核不拡散の義務をも負わされています。否、仮に、非核保有国への核拡散が生じた場合には、国連の常任理事国と凡そ一致する核保有国がその責任を負わされる立場に置かれているとも言えます。一方、核兵器禁止条約には、如何なる国にも保有の特権を与えない代わりに、核拡散に対して責任を負う国も存在していません。

 第2に、第1に関連して指摘し得るのは、核兵器禁止条約は、核保有国、並びに、その核の傘の下にある諸国が参加を見送っているため、一般国際法としての要件に欠けている、あるいは、そのレベルが極めて低い点です。正当防衛をも不可能とする性質を持つような武器等の法規制は、適用の一般性、すなわち、例外無しの適用が保障されていませんと、違反国が出現した場合、逆効果となる場合が少なくありません。この問題は、アメリカの銃規制問題とも共通していますが、侵害行為が現実に起こり得る場合には、自らの身を自らで守る手段の放棄強制は、他者による自らの殺害の容認をも意味しかねないのです。

 第3に、核兵器禁止条約には、日本国憲法第9条と同類の重大な欠陥があります。それは、核兵器の開発から使用までの一切の放棄という行動規範を定めてはいても、仮にこの行動規範に反する違法行為を行う国が出現した場合ついては、強制排除のための有効な最終手段が全く準備されていないことです。同条約の第4条は、確かに核兵器全廃に向けての措置が記されていますが、ひたすらに加盟国に対して核兵器廃棄の義務履行を求めるのみであり(IAEAとの保障措置協定の締結や国連事務総長への申告等…)、違反国の核保有によって安全保障を脅かされる他の加盟国に許される唯一の措置は、領域内に違反国が設置した核の撤去措置に留まります(第4条4)。第11条でも紛争の解決に関する条文を置いていますが、これも、平和的手段に終始しているのです。

 第4に指摘すべき点は、核兵器禁止条約の成立により、核分野における国際法が、内容の異なる二つの法が併存する状況に陥ってしまったことです。核兵器禁止条約では、核保有は如何なる国であれ“違法”と観念される一方で、NPTでは、核保有国による保有は合法的な行為となります。つまり、同一の行為であっても、概念上、一方では違法、もう一方では合法という全く異なる法的判断が成り立つこととなるのです。こうした混合状態は、一つの法域としての国際社会を引き裂く、あるいは、混乱させる要因となりますので、決して望ましいことではありません。

 今日、北朝鮮等の核保有が深刻な危機に至っていますが、核兵器禁止条約がNPTに完全に取って替る状況を想定しますと、以上に述べた諸問題により、国際社会は“お手上げ”の状態となるのではないでしょうか。核兵器禁止条約は、北朝鮮のような無法国家には無力なのです。このように考えますと、ICANは、核の攻撃的使用が懸念される中国やロシアに対して甘い点も含めて、どこか偽善と謀略の匂いがします。ノーベル平和賞の受賞により核兵器禁止条約が関心を集めていますが、国際社会の“治安向上”に対しては、国際法としての一般性の高いNPTの方がよほど“まし”なのではないかと思うのです。

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アメリカの対北先制は国際法において許されるのでは?

2017年10月12日 15時41分50秒 | 国際政治
SLBM発射台で動きなし=米研究所
朝鮮半島では、米朝間の軍事的睨み合いが続いており、両国のどちらによる先制もあり得る緊迫した状況にあります。何れの武力行使に対しても反対の声も少なくありませんが、少なくともアメリカの対北先制は国際法上において許されるのではないかと思うのです。

 戦争というものが、一方の国家が他方の国家から自らが欲するものを力で奪う手段として行われていた時代の戦争観にあっては、奪う側が一方的に標的とした国家に攻撃を仕掛ける先制の形態が多々見られました。しかも、国際法が存在しない時代には、こうした行為は必ずしも侵略行為として倫理的に批判されたわけではなく、逆に、版図を広げた英雄として讃えられるケースもあったのです。また、戦争が国家間の国益の衝突を解決する最終的手段として認められていたクラウゼヴィッツ流の近代戦争観では、先制と雖も、最後通牒の伝達や宣戦布告といった正当な手続きを踏んでいれば、一先ずは、合法的な戦争とされていました。それでは、普遍的な倫理観に根差した国際法秩序が出現した現代という時代に発生した北朝鮮問題は、どのように考えるべきなのでしょうか。

国際社会において戦争を一般的な国際法によって抑止しようとする試みは、凡そ、第一次世界大戦後における国際聯盟規約(1920年発効)の成立辺りに始まります(ヨーロッパでは、ウェストファリア条約(1648年)等に既に萌芽がみられる…)。戦前には不戦条約(1929年発効)なども成立しますが、この方向性をさらに強めたのは、第二次世界大戦後の1945年10月に発効した国連憲章です。こうした試みは、各々の国家に主権を認め、利己的侵害行為を禁じるに至る人類の倫理発展の流れを示しており、少なくとも、一方的に他国を侵害する行為は、一先ずは侵略と認定されるに至るのです。

 もっとも、国連憲章では、先制について具体的に言及されているわけではなく、この点に関して参考となるのは、1974年に国連総会で採択された「侵略の定義に関する決議」です。法的拘束力はないものの、その第2条の文面には、「国による(国連)憲章に違反する武力の先制行使は、侵略行為の一応の証拠となる。…」とあります(もっとも、最終的な判断は、安全保障理事会に任されるとする…)。それでは、仮にアメリカが北朝鮮に対して先制攻撃を行った場合、この行為は、国際法において“侵略”と認定されるのでしょうか。

 北朝鮮は、アメリカからの攻撃を自国に対する“侵略”と主張しておりますが、この問題の根本原因は、北朝鮮による度重なる国際法違反にあります。朝鮮戦争の発端然り、核開発然りであり、国際法秩序が成立している今日の国際社会では、北朝鮮の行為こそ、取締りを受けるべき“犯罪”として認定されているのです。となりますと、アメリカが先制したとしても、それは、国際社会における警察活動の一環と言うことになりましょう。否、NPTの趣旨に沿えば、核の不拡散は核保有国の責任でもあります。一般の社会でも、法で禁じられている大量殺人を成し得る凶器を以って隣人を脅迫したり、隣家の方向に向けて自家製の爆弾を投げたり、近隣の家々の破壊殺害を公言する危険人物が現れれば、先ずはその身柄を取り押さえ、凶器を押収するために、警察はその人物の家に踏み込むことでしょう。

 国際法が禁じているのはあくまでも犯罪者側の行為であり、警察側の制止行動ではないはずです。オバマ前大統領は“世界の警察官”の役割放棄を宣言しましたが、北朝鮮問題におけるアメリカのトランプ政権の行動は、まさしく国際社会からの危険の排除を担う“世界の警察官”そのものなのではないでしょうか。このように考えますと、アメリカの対北先制は、国際法上の“侵略”には当たらないと思うのです。

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アメリカの”南シナ海・北朝鮮切り離し策”は正解

2017年10月11日 15時55分19秒 | アメリカ
西沙沖で「航行の自由作戦」=中国の海洋進出けん制―米軍
 北朝鮮問題における協力を取り付ける必要から、アメリカのトランプ政権は、これまで、中国の南シナ海における行動に対して一歩引いた姿勢を見せてきました。しかしながら、報道によりますと、先日、パラセル(西沙)諸島でも「航行の自由作戦」が実施され、アメリカの自制も転換期を迎えているようです。

 今回の「航行の自由作戦」は、トランプ政権が誕生してから4回目となるそうですが、アメリカによる同作戦の再開は、国際法秩序の維持の観点からすれば、安心材料となります。何故ならば、仮に、アメリカが、北朝鮮問題と南シナ海問題とをバーター取引の材料とし、中国に対し、前者での協力を得るために後者について大幅に譲歩すれば、海運の大動脈でもある南シナ海が“中国の海”と化し、不法な軍事拠点化によって国際海洋秩序が著しく損なわれかねなかったからです。

 中国が、常設仲裁裁判所での判決を“紙屑”と見なして破り捨てたのは記憶に新しく、同国は、判決後にあっても歴史、並びに、法的根拠なき「九段線」の主張を取り下げてはいません。仮に、誰がどう見ても無理筋である「九段線」の主張が黙認されるとすれば、凡そ南シナ海全域が中国の海洋権益圏として囲い込まれ、EEZなどの国連海洋法条約において認められている南シナ海に接する他の諸国の権利は無に等しくなりましょう。また、中国の行動は、公海に対する“侵略”ともなり、国際公共財の私物化、あるいは、簒奪といっても過言ではないのです。

 アメリカが方針を転換した理由は、国連安保理での対北制裁決議において石油禁輸に踏み込めない中国に早々と見切りを付けたためとも推測されますが、あるいは、中国共産党全国代表大会が開催される10月18日を前にした、中国に対する強力な牽制の意味があったのかもしれません。同大会において、組織改革(粛清)を通して人民解放軍の掌握に努めてきた習近平国家主席による軍事独裁体制が成立するとの観測があり、今後、北朝鮮のみならず、“中国の夢”の実現を唱える中国が、軍事行動に及ぶ恐れがあるからです。中国がレールガンの開発を公式に認めたとする情報もあり(攻撃兵器としてか?)、その徴候は既に見受けられます。北朝鮮問題の有無に拘わらず、中国そのものが国際社会に対する深刻な脅威として立ち現われてきているのです。

 中国と北朝鮮の両国とも“無法国家”である場合には、取引によって迂闊にもどちらか一方の不法行為を許してしまうと、その途端、国際法秩序は崩壊の危機に瀕します。国際情勢、とりわけ加速化する中国の軍事大国化を考慮しますと、アメリカによる北朝鮮問題と南シナ海問題の切り離しは、国際法秩序を守るという国際社会の課題に対して、極めて適切な対応であったと思うのです。

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“日本開国の薦め”は正しいのか?-コスモポリタンの前提は帝国主義

2017年10月10日 16時13分42秒 | 国際政治
 最近、ハーバード大学の教授が日本について語るというテーマのネット記事をよく目にします。江戸時代の再評価や品格ある国家論など、扱う内容は様々なのですが、これらの教授の“指南”には、一つの共通点が見受けられます。それは、“日本は、より開かれた国にならねばならない”というものです。

 いわば、現代の日本開国論なのですが、日本国は、先進国として少子高齢化、人口減少、並びに、経済低迷といった諸問題に真っ先に直面するからこそ、海外から様々な異なる文化や考え方を持った人々を受け入れ、異質なものの接触がもたらす化学反応的なダイナミズムを活用し、これらの諸問題を克服すべきと説いているのです。多様性こそ、問題解決と発展の鍵であると…。登場する凡そ全ての教授陣が画一的な見解を述べる状況に、むしろ多様性の喪失と思想の画一化を感じさせるのですが、果たして、この日本国に対するコスモポリタン化の薦めは適切なのでしょうか。

 おそらく、コスモポリタンの薦めは、日本国のみならず全世界に対するものなのでしょう。しかしながら、この主張には、一つの重大な問題点があるように思えます。それは、コスモポリタン、即ち“世界市民”とは、そもそも帝国の枠内を前提としていることです(特定の国に属さないのではなく、世界帝国に属している…)。この言葉の起源は、アレキサンダー大王による世界征服事業にあり、紀元前4世紀にギリシャから現在のアフガニスタンにまで及ぶ広大な版図を有する、多様な民族を包摂する大帝国が出現した歴史に因ります。帝国内には国境はなく、それ故に、帝国内の様々な民族や文化が混ざり合い、融合し得る状況が出現したのです。さしもの大帝国も大王の早すぎる死と共に短命に終わり、帝国も分割され、やがて消滅するに至りますが、この時誕生したコスモポリタンの概念は、思想の世界においてのみ理想郷として生き残り、今日にまで影響を残すこととなったのです。

 ところが、今日の国際社会を眺めて見ますと、そこには、国民国家体系という、古代の帝国とは全く異なる分散型の体系が成立しています。個々人は、“世界市民”=帝国市民ではなく、例外的に重国籍のケースはあるものの、各自はそれぞれ特定の国に属し、自らが国籍や市民権を有する国との間に権利・義務関係を構成しています。現実が国民国家体系にありながら、その同一の空間において帝国由来のコスモポリタン主義を実践しますと、当然に、現行の国際体系との不整合により、政治的リスクや混乱が生じます。コスモポリタンとは、今日よりも社会が複雑ではなかった時代において、一瞬しか存在しえなかった世界帝国を前提としている“あだ花”であり、地表に既に国境線が引かれている状態でのコスモポリタン化とは、社会対立や摩擦を引き起こす、あるいは、覇権主義的な諸国や勢力による移民を介した間接支配を許す事態になりかねないのです。

 このように考えますと、日本国に対する開国の薦めは、現実、並びに、付随するリスクを無視した相当に乱暴な要求と言うことになりましょう。アカデミズムやマスメディアの世界でも、国民国家体系を克服すべき“旧体制”と見做し、その破壊を奨励する見解も見受けられますが、こうした意見は、日本国を含めた自由な諸国や人々を、新たなる帝国主義者に引き渡す手引きとなるのではないかと思うのです。

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教育無償化はマルクスのマニフェスト

2017年10月09日 15時44分27秒 | 国際政治
自民32%、希望13%…衆院比例選の投票先
今般の衆議院選挙では、自民党のみならず、凡そ全ての政党が、少子高齢化対策として教育への公的投資拡大を主張しています。この分野においては、政党という政党が何れも足並みを揃えているのですが、教育無償化が、マルクスが『共産党宣言』にて主張した基本方針の一つであったことは、あまり知られてはいません。

 『共産党宣言』こそ、1848年に出版された共産主義者のバイブルであり、以後、全世界の共産主義者の信奉を集めてきました。この書物には、最も“進歩”した共産主義国において実現すべき一般的な方策が、十か条からなる政策綱領として纏められています。共産主義者にとりましては、マルクス・エンゲルスから授かった新たなる“十戒”なのでしょうが、その第10項目目には、“すべての児童の公共的無償教育…”が掲げられているのです。

 何故、共産主義者が教育の無償化を目指すのか、その表向きの理由は、教育の機会均等の実現と信じられています。財産の多寡にかかわらず、全ての人々に教育を受ける機会が保障されている社会を目指す方向性においては、共産主義者のみならず、多くの人々の賛意を得ることでしょう。ところが、20世紀に出現した社会・共産主義国家の実体を見ますと、全人民の平等化が共産党員のみの特権階級化となり、財産の公有化が共産党のみによる国有財産の私物化となり、計画経済による豊かな国民生活の実現が国民の窮乏生活となり、自由な労働が国民の奴隷化となり、何れもが悉く目指す目的地と実際の到着地は正反対でした。こうしたあべこべ現象が、労働者や兵士を扇動して起こした共産革命が、その実、世界大のネットワークを有する非国家勢力による詐術的陰謀であったとする説の信憑性を高めているのですが、マニフェストに掲げられた教育無償化についても、隠れた目的があったと推測されるのです。

 それでは、教育の無償化においてマルクスは、何を意図したのでしょうか。おそらくそれは、教育権の独占による伝統的な家庭の破壊、並びに、砂状化された国民の直接的、かつ、全人格的な支配ではなかったかと思うのです。社会・共産主義国では、確かに教育の無償化は実現していますが、幼少より親元から引き離され、共産主義を絶対思想とする洗脳教育が施された結果、国民は、イデオロギーの檻に閉じ込められ、国家、否、共産党、あるいは、独裁者に直接忠誠を誓う存在にこそなれ、国民は、自由な空間を失い、政府が定める型通りの生き方に嵌められてしますのです。男女ともに区別なく労働に従事し、家庭はなく、歴史や伝統もなく、子供達は、国家によって家畜の如くに心身ともに調教されると云う…。全体主義国家の恐怖を描いたジョージ・オーウェルの『1984年』という小説も、マルクスの『共産党宣言』が出版された1848年という年を意識して命名されているのでしょう。

戦後の日本の教育界も、全国津々浦々にまで日教組が組織され、社会・共産主義勢力が最も深く浸透した領域となりました。その一方で、今日の政治状況は、何れの国も、新自由主義という共産主義の亜流、否、それをも背後から操ってきた非国家勢力本体の強い影響下にあるとされています。何れの政党も、表看板にも政策内容にも若干の違いがあり、対立を装いながらも、共産主義のマニフェストが示した方向性と一致しているとなりますと、少子化対策とは名ばかりであり、いよいよもって、日本国の未来は危ういと言わざるを得ないのです。

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原発ゼロと自動車のEVシフト-電力供給をどうするのか?

2017年10月08日 14時37分36秒 | 国際政治
1100人が出馬準備=自公に野党2極対抗【17衆院選】
2040年までにガソリン・ディーゼル車の禁止を掲げたフランスやイギリスに次いで中国も自動車のEVシフトを加速させており、今日、各国の自動車メーカーも、開発競争に凌ぎを削っております。家電メーカーのダイソンまでも参入するとの報道もありますが、EVシフトへの道は、必ずしも平坦ではないように思えます。

 EVの最大の利点とは、“環境にやさしい”ことです。ディーゼルが主流であった欧州諸国では、自動車の排気ガスによる大気汚染は深刻であり、ガソリン自動車の運転規制にまで及んだフランスのEVソフトも、基本的には環境対策として理解されます。温暖化ガスとされる二酸化炭素のみならず、その他の有害物質も輩出しないのですから、クリーンな自動車の登場は“良いこと尽くし”のように見えるのです。しかしながら、燃料電池や安全性など、既に指摘されている様々な問題点に加えて一つ盲点があるとしますと、それは電力供給の問題です。

 政府は、現在、EV購入者に対する補助金制度を以ってその普及を後押ししていますが、現段階では台数が限られていますので、電力の問題については、然程に意識されていません。しかしながら、今後、急速にEVが普及するとしますと、否が応でも電力問題にぶつかることとなります。動力燃料としてのガソリンの消費が急減する一方で、電力需要は大幅に伸びると予測されるのです。この時、果たして、各国とも、十分な電力供給体制を準備することができるのでしょうか。

 仮に、再生エネ法の下で電力を増産しようとすれば、電力料金はさらに跳ね上がり、一般国民の家計を圧迫します。現状でさえ、若年層が自動車保有に消極である理由は、その経済的負担にあるとされており、EV保有のコストが上昇すれば、近い将来、一部の富裕層しか自動車を所有できない時代が到来するかもしれません。しかも、再生エネの乱開発により、日本国の景観は、太陽光パネルの大量設置によって著しく損なわれることになるかもしれないのです。また、家庭用太陽光パネルの普及という道もあるものの、それでは、アパートやマンションといった集合住宅に住む人の負担には変わりはありません。もっとも、余剰になったガソリンを火力発電に転用して電力供給量を増やす方法もあります。しかしながら、これでは、二酸化炭素の排出量がむしろ増加して大気汚染が進み、“クリーンな自動車”のメリットは半減します。

 今般の衆議院選挙では、希望の党は、原発ゼロを公約の柱の一つに据えています。加えて立憲民主党といった他の野党もこの政策方針にあるのでしょうが、EVの普及に伴う電力問題ついては触れてはいません。仮に、EV普及に伴う電力不足が現実化するとしますと、原子力発電は有力な選択肢となるはずなのですが、この選択肢を最初から放棄してしまって大丈夫なのでしょうか。今日の状況を見ておりますと、政治と経済、そして社会も、どこか現実から浮遊したような“プラン”だけが先走っているように思えるのです。

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ロヒンギャ問題は公平に-ミス・ユニバース入賞取消問題

2017年10月07日 16時24分59秒 | 国際政治
ロヒンギャ非難、ミス・ユニバース入賞取り消し
報道に因りますと、ミャンマーにおいてミス・ユニバースに入賞した女性が、ロヒンギャ問題においてロヒンギャ側に批判的な動画を投稿したことから、主催者側から「規約違反」を理由に賞を取り消されたそうです。しかしながら、この措置、批判されるべきは、主催者側なのではないかと思うのです。

 表面的な現象だけに注目すれば、如何にも、ミャンマーの多数派である仏教徒勢力が、政府ぐるみでイスラム系少数派のロヒンギャの人々を迫害しているように見えます。実際に、ロヒンギャの人々にはミャンマー籍をはじめとして何れの国の国籍もないため、法の保護も十分には受けられず、その立場が極めて不安定な境遇にある人々であることは確かなことです。しかしながら、この問題は、極めて政治的な問題ですので、ロヒンギャの側の主張のみを以って、ミャンマー側に“悪者”のレッテルを貼るのは公平ではないように思えます。

 この問題の根は深く、現在、ロヒンギャ族の人々のその多くが居住するラカイン州の歴史を見ますと、既に3世紀頃から交易のために訪れていたアラブ商人が、8世紀辺りからイスラム教の布教活動にも従事するより、ロヒンギャ族のイスラム化が進むことになったと言います。暫くの間、仏教徒のミャンマー人とイスラム教徒のロヒンギャ族は平和裏に共存していましたが、この地域が東インド会社の支配下に入り、ベンガル管区(インドの西ベンガル州とバングラディッシュを含む…)に組み込まれると、両者の間には決定的な亀裂が生じます。何故ならば、ベンガルとラカイン(アラカン)との間の国境が消滅し、ベンガル側からイスラム教徒がミャンマー側に労働力として移住することができるようになったかです。こうして、仏教徒とイスラム教徒との人口比が後者に傾き、両者の関係は悪化の一途を辿ってゆくのです。現在では、仏教徒側が969運動といった武装組織を結成すると共に、ロヒンギャ側も外部のイスラム過激派勢力の支援の下で武装組織が活動しており、両勢力間の対立は、武力闘争に発展しています。

 以上の経緯は、国境の消滅が解決し難い深刻な移民問題を齎した前例であり、国境が低くなる一方のグローバル化時代に対する警鐘でもあります。そして、両者の対立要因を見ますと、必ずしも、仏教徒側のみに非があるとも思えません。しかも、入賞を取り消されたシュエ・エアイン・シーさんの批判点は、“ロヒンギャ側が被害者を装っているのではないか”というものであり、常々、日本国は周辺諸国による国際プロパガンダによって、一方的に“加害者”に仕立て上げられているため、“シーさんの主張には公平に耳を傾けるべき”と感じる日本人も少なくないのではないでしょうか。

 複雑な歴史的背景を有する問題については、公平な判断をなすためにも、自由な発言や事実の追求が許されるべきです。ミス・ユニバースの主催者が、ーさんの政治的な発言を咎めるとしますと、それは、一種の言論弾圧となるのではないでしょうか。

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風前の灯となったのは保守?-深刻な社会面での保守政党のリベラル化

2017年10月06日 11時26分30秒 | 日本政治
 今月22日に予定されている衆議院選挙では、立憲民主党の設立により三極構図の成立が謳われながらも、“寛容な保守系改革政党”を標榜する希望の党が鳴り物入りで旗揚げしたこともあって、日本国の政界再編は、保守色が強まる方向に進んでいるとするイメージがあります。しかしながら、この見方、果たして的確に政治現象を捉えているのでしょうか。

 防衛や安全保障の分野に限定しますと、急速に保守化が進行しているのは疑いのないことです。自民党が北朝鮮問題を最大の選挙の争点に据えているのは、過去の実績も手伝って、差し迫った危機への適切な対処を望む有権者の大半からの支持を期待できるからです。こうした憲法改正にまで繋がる防衛力と日米安保強化の方針は、希望の党や日本維新の会の政策方針とも軌を一にしており、争点化し得るほどの与党と立場との違いは見られません。そして、マスコミから三極構図の一角の指定席を設けてもらった立憲民主党でさえ、日米同盟を頭から否定してはいないのです。中国の急速な軍拡や北朝鮮問題に直面している現在、この分野だけに注目すれば、日本国の政治は国民意識を含めて保守に傾斜しているのです。

 ところが、社会面に視点を移しますと、そこには、防衛や安全保障分野とは全く違った光景が見えてきます。それは、特に教育の分野において顕著であり、どの政党も、少子高齢化対策の一環として、教育への公的投資の増額を基本方針に定めています。この方針は、OECDの統計にあって、先進国の中でもとりわけ日本国の教育分野への公的投資が低い数字に留まっていることと関連していると推測されますが、政党間の横並び的な姿勢は、どこか違和感を覚えます。見方を変えれば、何れの政党も、教育への国家介入の強化に向けて一斉に動いているのです。

 教育というものが、経済面のみならず、国民性、人生観、モラル、家庭の在り方、そして、日本の社会全体に有形無形の影響を与えるという厳粛なる事実を考慮しますと、公的介入の強化については疑問を呈さざるを得ません。真の保守政党であれば、家庭教育の大切さや伝統・文化の継承を訴えるでしょうし、幼児教育や大学教育の無償化といった社会・共産主義風味な政策には本能的な警戒感を抱くことでしょう。こうした政策の推進者は、兎角に教育を受けるチャンスの平等化を根拠として挙げていますが、受ける教育が、公的なマニュアルの下での画一化された教育であれば、個々の個性や能力はむしろ押しつぶされ、無味乾燥としたモノクロ人間が大量に“生産”さることでしょう。ソ連邦しかり、中国然りであり、北朝鮮に至っては、全ての国民がクローンなのではないか、という錯覚にさえ陥ります。

 第二次安倍政権が誕生するに際しては、“日本を取り戻す”が選挙スローガンであったことを思い起こしますと、今般の選挙は、全く以って様変わりです。“日本”という国名が殆ど聞こえてこず、これまでのところ、日本国の歴史や伝統の尊重や移民政策反対を掲げる政党も見当たらないのですから。リベラルを親社会・共産主義的な改造主義として定義しますと、今日の日本国では、防衛や安全保障といった政治面においては全体として保守化し、リベラルが消えゆきながら(もっとも、社会・共産主義の本山であったソ連も中国も、自由主義国よりも攻撃的な国家主義国…)、社会面においては、前者とは全く逆にリベラル化して、保守色が風前の灯の状態にあります。

そして、保守政党のリベラル化は、日本国のみならず、アメリカの共和党、イギリスの保守党、そして、ドイツのCDUなど、全世界的な現象でもあります。こうした奇妙な現象の裏側に何があるのか、参政権を有ればこそ、国民には、その背後関係を知る権利があるのではないでしょうか。

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北朝鮮とビットコインは一蓮托生?

2017年10月05日 16時17分44秒 | 国際政治
「ビットコイン・仮想通貨」のニュース
 国連安保理の枠組における制裁措置のみならず、日米をはじめ各国が北朝鮮に対する独自制裁を強める中、北朝鮮によるビットコインの取得にも警戒が必要となってまいりました。報道によりますと、北朝鮮は、既に外貨獲得の手段として仮想通貨であるビットコインのマインニング(mining: “鉱山採掘”)に乗り出しているそうです。

 ビットコインは、発行元から提示された高度な計算問題を最初に解いた者に報酬として提供されるため、問題の解答を専門とする業者は、金鉱山の採掘に擬えてマイナー(miner: 鉱山採掘者)と呼ばれています。否、マイニングにさえ成功すれば、事業者は、私人でありながらも、国家を排して直接に“貨幣発行益”を手に入れることができます(北朝鮮の場合、私人ではないが“国家ぐるみ”のマイナー…)。北朝鮮は、独自通貨である北朝鮮ウォンは国際通貨ではなく、法定通貨としての信用も低いため、核・ミサイル開発のために貿易決済に使用することはできません。しかしながら、ビットコインであれば、分裂したとはいえ、世界各地の取引所において各国の法定通貨と交換できますので、“おたずね者”にとっては、これ程、“マネーロンダリング”が容易な“貨幣”もないのです。
 
 ところが、ビットコインには、ブロックチェーンという仕組みがあるそうです。この仕組みは他の様々な分野にも応用できるそうで、フィンテックの中核的技術として期待されてもいますが、ブロックチェーンの仕組みとは、従来の通貨システムが中央集権型であるとしますと分散型であり、多くの人々が情報を共有することで不正ができない、つまり、衆人監視の下で通貨価値が維持されるシステムとして説明されています。つまり、その名が示すように、発行以降の全ての取引情報はチェーンの如くに繋がってゆき、データとして広範囲に記録されるため、永遠に消えることは無いということになります。

 この理解が正しければ、ビットコインとは、取引の都度、所有者が常に記録されている、即ち、特定できる仕組みとなります。仮に、北朝鮮がビットコインのマイニングに成功したとしても、現金取引とは違い、これをどのように使おうとも、“足がつく”ということになります。となりますと、ビットコインの取引所に対して北朝鮮が獲得したビットコインの取引を禁じる、あるいは、発行者に対して北朝鮮系マイナーの排除を求める措置を取れば(どの国が発行者に対する行政権を持つのであろうか?)、北朝鮮による使用を封じることができるはずです。それとも、ビットコインとは、これまでも犯罪組織の利用が懸念されてきたように、取引データとしての記録は残っても、その所有者については発行後の動きを追うことはできないのでしょうか。

 また、マイニングに成功するためには、大量の電力を消費する大規模なコンピューター設備を要するそうです。北朝鮮は、現在、厳しい経済制裁の下にあり、電力に余剰があるとは思えず、マイニング目的で大量の電力を消費すれば、国民生活はさらに逼迫することでしょう。エネルギー事情によって国内でのマイニングを長期的に維持することはできないしょうが、北朝鮮は、海外においてマイニング事業者を設立するかもしれません。マイナーの多くは、電力料金の安価な国に集中しているそうです。電力料金を支払うための外貨が必要となりますので、北朝鮮は、ここでも外貨の壁にぶつかりますが、北朝鮮系マイナーによる事業所設立を阻止するためには、各国政府が、ダミー会社をも含めて事業許可を与えないといった措置を要することでしょう。

 さらに、最近では、北朝鮮は、サイバー攻撃によってビットコインの盗取を企てたという情報があります。今般の事件では、被害は発生しなかったそうですが、仮に、この窃盗行為に成功すれば、ブロックチェーンによって“ブロック”されているビットコインは安全という神話も崩壊します。

 そもそもビットコインの発行とは、私人による一種の“通貨偽造”ですので、初めからいかがわしい存在なのですが、北朝鮮が絡むことで、さらにそのイメージは悪化しそうです。そして、仮に、北朝鮮がビットコインの入手により経済制裁によるダメージを緩和し得るとしますと、それを許すビットコインに対する批判もさらに高まることでしょう。しかも、上述したような、北朝鮮のビットコイン使用を完全に封じ込める措置を取ろうとすれば、ビットコインの取引や使用を許している全ての諸国の緊密な協力を要します。この一件は、北朝鮮のみならず、国際社会において改めてビットコインのリスクと問題性をも問うているように思えるのです。

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衆議院選挙-“公約を守れ”は国民にとっては危険

2017年10月04日 16時04分52秒 | 日本政治
「政党」のニュース
政治に対する信頼性が著しく低下している中、信頼回復のためには、“政党は、選挙に際して掲げた公約を誠実に守るべし”とする説があります。国民との約束は守れ、と…。しかしながら、この主張、真っ当なように聞こえて、案外、危険なのではないかと思うのです。

 第1に、一般社会の約束や契約との違いに基づく危険性があります。通常の約束や契約とは、その内容を双方が吟味し、全ての項目について納得した場合に成立します。当事者の双方、あるいは、一方に不満がある条項が含まれていたら最後、約束であれ、契約であれご破算となります。細かいところを詰め、双方が折り合い、当事者のどちらもが受け入れ可能な状態に至って初めて約束や契約は成立し、双方を拘束するのです。

この観点から“公約”というものを眺めてみますと、一般社会の約束や契約とは随分と違っています。“公約”の内容は、一方的に政党が作成したものであり、もう一方の当事者である有権者の要望や希望が入り込む余地が殆どありません。しかも、公約の項目の中には、有権者が受け入れ難い政策も含まれていながら、有権者の側には内容修正のために折衝を求める政治・行政的・司法的ルートもチャンスもありません。また、公約に記されていな政策分野があれば(意図的に空白にする場合も…)、政権与党への“白紙委任”にもなりかねないのです。

第2に、“公約”の誠実な履行が、民主主義の原則に反してしまうという問題があります。民主主義とは議論である、と称されるように、自由闊達な議論なくしては成立しません。議会に法案が提出され、様々な角度から内容が吟味され、修正を施しながら国民を資するより良き法案に作り上げてゆくのが民主的立法プロセスです。ところが、政党が掲げる“公約”を絶対視し、その実現が政権与党の使命ともなりますと、最早国会での議論は不要となります。否、“公約を守れ”と迫り、一文一句変えてはならないとしますと、議会で修正を加えること自体が不可能となるのです。議会不要論ともなりますので、独裁体制に、一歩、近づくことにもなりかねません。

また、第3点としては、投票率の低迷が続いていることに加えて、小選挙区制では死票が多く、当選者と雖も必ずしも有権者の過半数を越える票を得ていないことです。このため、政権与党による“公約”の誠実な履行とは、大半の有権者にとりましては、望ましくない政策の押し付けとなります。また、政党の掲げる“公約”が確実に履行されるということになりますと、投票率はさら下がることになり、政治家の正当性も失われることになるでしょう(選挙の成立要件を、投票率が50%を越えることとすれば、国民は、棄権によって“公約”拒否権を持つことができる)。

以上に述べたように、政党が杓子定規に“公約”を守ることには、見えざるリスクが潜んでいます。全てが国民本位で完璧な“公約”などあり得ませんし、議論なき民主主義はもはや生きた民主主義ではなく、現行の選挙制度は、政治と国民の乖離に拍車をかけているからです。こうした側面は、現行の民主的統治システムの限界でもあるのですが、今般の衆議院選挙では、どの政党の“公約”にも、評価し得る政策ばかりではなく、考え直してもらいたい、イデオロギー志向の強い、あるいは、海外勢力との約束が疑われるような政策等が混在しており、国民の選択が極めて難しい状況です。国民も政党も“公約”に内在するリスクを認識し、実際の政治プロセスにあっては、一般の国民から高い支持を得られうる政策造りに努めるべきではないかと思うのです。

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米ラスベガス銃乱射事件と北朝鮮は関連するのか?

2017年10月03日 14時26分36秒 | アメリカ
米乱射は単独犯と断定…銃器類42丁と弾薬押収
 米ネバダ州のラスベガスで今月1日に起きた銃乱射事件は、犠牲者が59人を数える大惨事となりました。スティーブン・パドック容疑者が自殺したため、事件の背景はつまびらかではありませんが、報道によりますと、アジア系の女性と同居していたそうです。

 “アジア系の女性”との情報に、おそらく、多くの人々の脳裏に真っ先に浮かんだのは、同事件と北朝鮮との関係ではなかったと思います。実際にネット上では、この情報に反応し、既にこうした推測が飛び交っています。その一方で、同女性が事件当時東京に滞在しているために直接的な関係はないとの見方を示す米メディアがある一方で、捜査当局も、帰国を待って事情を聴取する予定なそうです。これまでのところ、北朝鮮の犯行を示す情報はないのですが、その可能性は、以下の諸点からゼロではないように思えます。

 第1の点は、北朝鮮の過去のテロ活動にあります。北朝鮮は、現在、解除されているとはいえ、米政府からテロ支援国家の指定を受けた“犯歴”を有する国です。ラングーン事件や大韓航空機爆破事件のみならず、金正恩のトップ就任後も、マレーシアにて兄の金正男を暗殺しています。テロを敵国に対する有効な攻撃手段と見なしており、たとえ、今般の銃乱射が北朝鮮とは無関係であったとしても、北朝鮮には、“敵国”であるアメリカにおいてテロを起こす動機が十分すぎるほどあるのです。

 第2の点は、何と言いましても、“アジア系の女性”の存在です。アメリカの捜査当局もメディアも、何故か、“アジア系の女性”と表現し、正確な国籍を公表していません。否、国籍に関する情報がありながら、敢えて隠しているのです。意図的に国籍が隠蔽されるケースとは、大抵、政治問題化する可能性が認められる場合です。何らかの政治的配慮が強く働いたとすれば、IS関連が疑われるイスラム教徒が比較的に多いインドネシアやフィリピンといった東南アジア諸国よりも、一触即発状態にある北朝鮮、あるいは、常にセンシティヴな関係にある中国の可能性の方が高いように思えます。

 加えて、東京在住という情報も、北朝鮮犯行説の信憑性を高めます。日本国籍を取得した女性であるかもしれませんが、日本国内には、在日中国、韓国、朝鮮の人々が200万人以上も居住しており(特別永住資格者も多数…)、帰化した人や二重国籍者を合せますと、相当数の朝鮮半島系、並びに、中国系の住民がおります。仮に、北朝鮮が、入管当局に疑われることなく工作員をアメリカに送り込もうとすれば、チェックが甘い日本経由を試みることでしょう。また、“アジア系女性”との表現は、国籍国と出身国とに違いがあるからかもしれません。

 第3の点は、北朝鮮は、海外においてテロや事件を起こすに際して、しばしば女性を利用することです。大韓航空機爆破事件でも、実行の一人犯は“蜂谷真由美”なる日本名を名乗る女性工作員(金賢姫)であり、マレーシアで起きた金正男暗殺事件でも、実行犯は、騙されて加担したとされる二人の東南アジアの女性達でした。比較的警戒されない女性を利用する北朝鮮の手法は、“アジア系女性”の存在をクローズアップさせる要因なのです。

 第4点を挙げるとすれば、容疑者の行動が用意周到であることです。自宅からは、42丁の銃器と爆発物が押収されたそうですが、こうした手法は、阪神淡路大震災時に露呈した朝鮮総連による大量の武器貯蔵を思い起こさせます。単独犯とはされていますが、組織的蜂起や破壊活動をも計画していたとする推測も成り立つ量です。

 第5点としては、犠牲になられた方々の多くは、カントリー・ミュージックのコンサートへの参加者であったことです。カントリー・ミュージックと言えば、“古き良きアメリカ”の象徴のようなジャンルであり、その参加者達も、アメリカをこよなく愛する純朴なアメリカ人であったのでしょう。スティーブン・パドック容疑者は白人と報じられていますが、いわゆる“白人至上主義”ではなく、むしろ、伝統的な“アメリカらしさ”を持った白人層を攻撃しているのです。また、自らもカジノの常連であったそうですので、IS等による所謂“腐敗した西洋文明に対する破壊行為”でもないようです。

 そして最後に第6点として指摘し得ることは、トランプ大統領が、非難声明において犯人を“ガンマン”と呼んだことです。この表現、ミサイル発射実験を繰り返す金正恩委員長に対して付けた“ロケットマン”と類似しています。仮に、大統領が北朝鮮関連の情報を得ていたとすれば、自ずと似通った表現が頭に浮かんだ可能性もないわけではないのです。

 以上に北朝鮮犯行説についてその可能性を探ってみましたが、限られた情報では推理の域を出ず、真相の究明は今後の捜査が待たれるところとなりましょう。しかしながら、何れにせよ、この悲惨な事件は、米軍による対北軍事制裁があり得る今日、北朝鮮、あるいは、そのシンパ勢力によるテロの可能性をアメリカ、並びに、同盟諸国に警告しているように思えるのです。

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“政界再編劇”の怪-自民党は党勢拡大に動かないのか?

2017年10月02日 15時43分14秒 | 日本政治
「政党」のニュース 小池百合子都知事の新党「希望の党」の結成によって、日本国の政界は、政党の枠組の再編に向けた混乱が続いております。この混乱ぶりに、今日の政党というものが、政治的信条や政策方針を共にする人々の集まりではなく、利権の獲得を目指した選挙協力団体である疑いを濃くするのですが、今般の一件でさらに疑惑が増したのは、“政界再編劇”と称されたように、一連の騒動は、最初から特定のシナリオに沿っているのではないか、というものです。

 マスメディアは、意図してか、「希望の党」をめぐる野党側の分裂や解党の動きにのみに国民の関心が集中するように報じています。マスメディアに流された人々は、今般の政界再編を、新党結成を機とした野党間の駆け引きと離合集散のプロセスとして眺めていることでしょう。裏切りあり、騙し合いあり、抜け駆けあり、置き去りあり、復讐あり…、視聴者を惹きつけるドラマ的要素には事欠きません。しかしながら、与党の側に視線を転じますと、不可解な点があるのです。それは、与党側には、全く以ってこの政界再編の波に乗ろうとする気配が感じられないことです。

 常識的に考えれば、政界再編は、野党のみならず、与党にとりましても党勢拡大の絶好のチャンスとなるはずです。特に憲法改正を悲願としてきた安倍首相は、改正案の発議に各議院の総議員数の3分の2の賛成を要するため、一議席でも多く衆議院の議席数を増やしたいはずです。選挙後の結果を見て、新党、あるいは、何れかの既存政党と合わせてこの数に達すればよいと考えているのかもしれませんが、最も確実な方法は、自らの政党の議席数拡大をおいて他はありません。野党各党の中には、極左系は別としても、「希望の党」よりも、むしろ自民党との間に親和性が高い議員も少なくないはずです。それにも拘らず、自民党は、積極的に野党の議員を“リクルート”しようともしていませんし、野党側からも、これまでのところ、自民党への移籍を希望する議員は出現していません。傍観者を決め込んでいるようにも見えるのです。

森友・加計学園問題で支持率を落としたとはいえ、直近の世論調査の数字が正確であれば、自民党に投票すると回答した有権者が最も多く、「希望の党」との比較では、自民党は凡そ後者の2倍の数字を得ています(小選挙区制では極めて有利…)。自らが懸念するほど支持率が落ち込んでいるわけでもありませんので、その静観姿勢は不可思議なのです。

そこで思い出されるのは、2013年3月に自民公明両党から提案された中小政党優先枠の設置案です。この案は、比例代表の150議席の内60議席を中小政党に予め割り当てるとする案でしたが、事前に議会の議席を割り振るという自由選挙の原則に反する手法は、かつて、東欧諸国で採用されていた統制方法に類似しています。今般の政界再編劇には外部にシナリオライターがおり、日本国の与野党を背後から操っていると推測される理由は、野党のみならず、自らの党勢拡大を“自粛”している与党側の不可解な行動にもあるのです。日本の政治は、表向きは、自由で民主的な選挙が実施されているように見えながら、その実、外部の“見えざる手”によって巧妙に操作されているのでしょうか。あるいは、日本の政界が”談合”体質であるが故の内発的な現象なのでしょうか。何れにしましても、与野党何れの政党からも問題提起や具体的な提案はありませんが、真に改革を必要としているのは、日本国の政治システムではないかと思うのです。

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