昨今の米価高騰については、現状の価格が農家にとりましては適正なのではないか、とする擁護論があります。政府が長期的に推進してきた減反政策とも相まって、お米の生産量が減少してきた理由は米価の低さにあるとする説です。採算が採れず、作れば作るほど赤字になるのでは、次世代の後継者が失われるのは当然であり、国民がこれまで通りに国産米の供給を望むならば、高価格は受忍すべきということになります。
確かに、米価が採算割れを起こすような低価格であれば、日本国の農業はやがて衰退してゆくことでしょう。しかしながら、米作農家を一緒くたにして米価の高止まりをよしとするのは、いささか極論のようにも思えます。何故ならば、‘農家’には、既に農地の集約化を済ませた比較的規模の大きな農業事業者から山間部等の零細な農家まで様々であるからです。前者については、個人事業ではなく、農業を専業とする少数の農家に農地を委託して法人化した農業事業団体も見られるのです。
農地の集約化を見ますと、2014年から農地バンクの取り組みも始まり、年々、農地の集約化率は上昇傾向を続けています。農林水産省のデータによりますと、2010年に48.1%であった集積率は、2019年には57.1%まで上昇しています。2025年現在では、さらにこの率は上がっていることでしょう。しかも、集積率には地方毎に大きな開きがあり、北海道が91.5%であるのに対して、中国四国地方は28.7%であり、凡そ3倍の開きがあります。同データは、比較的小規模となる日本国の農地の問題が、近年緩和されてきていることを示すと共に、米価が低価格であっても経営が成り立つ‘農家’もあれば、価格が上がらなければ赤字となる農家も存在することを意味しています。
現状にあって農地の経営状態に違いがあるのであれば、一律に米価を高止まりさせる必要は低下します。棚田など、山間部にあって集積化が困難な農家を基準として米価を想定して‘基準米価’としますと、消費者を犠牲にする形で大規模農家の利益が膨れ上がることにもなりましょう。もちろん、若者が農業を志すに十分な所得を約束する、つまり、適正なレベルの価格を維持する必要はありましょうが、農村に贅を尽くした‘お米御殿’が乱立するほどの高値はさすがに行き過ぎとなりましょう。つまり、農地面積を根拠とした高値擁護論は、今日、説得力が薄れてきているのです。
政府は、集約困難な農地については、‘地域の特性に応じた持続可能な土地利用への転換’を基本方針としています。これらの農地では、米作を諦めて、放牧地や農業再開可能あるいは森林化するように薦めているのです。後継者が現れない場合は致し方がないものの、この方針については疑問がないわけではありませんが(独立採算を目指すならば、観光資源化や有機栽培等の高級米やブランド米を生産する方向性も・・・)、少なくとも現状にあって、仮に採算割れが起きている零細農家が存在しているとすれば、これらの農家に対して重点的に補助金を支給すれば事足ります。国民にとりましては、手頃な価格でお米が購入できますし、ピンポイント式の農家支援制度であれば、予算も限られますので税負担も軽減されましょう。実際に、農地の用途変更を進めつつも、政府は、中山間地域等直接支払制度を2000年から実施しており、存続が危ぶまれる零細農家に対して財政的な支援策が講じられているのです。
以上に述べてきましたように、農家の経営や農業の持続性を慮った高値容認論も多々あるのですが、現状からしますと他の対処法もありそうです。それどころか、今般の米価高騰に関しては、その恩恵は農家には還元されず、集荷事業や卸売業者等による利ざや狙いの買い占めを指摘する声も聞えてきます。JA以外にも集荷業者が農家から高値で買い漁っているというのです。一体、こうした‘集荷事業者’がどうのようにして湧いてしまったのか、米価高騰の真相を知るためにも、その背景を調べてみる必要はありそうです(農水省が免許を交付、あるいは、営業を許可している?)。何れにしましても、今般の米価高騰は、今後、国民レベルで議論すべき日本国の農業に関わる様々な問題を提起したのではないかと思うのです。