上品な振る舞い、高尚な会話は5分とつづかない。
柄じゃあない。
真面目に映画議論を繰り広げていても、3分に1度は女優のハダカの話を入れないと気が済まないし「やっていられない」。
政治や社会ネタだって同様である。
安倍さんは遅漏っぽいとか、パソコン遠隔操作のヤツは童貞なんじゃないかとか。
だから自分に対する好き嫌いは、はっきりしている(らしい)。
そういう話を面白いと感じてくれるひとは自分に寄ってくるし、そうでないひとは自分と目をあわそうともしてこない。
うん、それでいい。
いつからそうなったのか、ガキのころからそんな感じなのか―と、思い返してみる。
・・・・・。
う~~ん、生まれつきではない、、、ような気がする。
そうなったきっかけが、ぜんぜん分からないのだった。
ただ、それで悔いを覚えたことがないので控えよう・改めようという気が起こらない。
好いた女が出来て、彼女が「そういうこと、一切合財」が嫌いだったとするならば、変わろうとするのだろうか。
・・・・・。
難しいねぇ。
禁酒や禁煙、禁自慰より難しいような気がする。
たぶん、彼女のほうをあきらめることだろう。
たまに、ごくたまに「こんなことでいいのか!?」と思うことがある。
そんな、自分が弱っているときに励ましてくれるのがモーツァルトの存在である。
天才とキチガイではちがいがあり過ぎるだろう?
たしかにそうだが、彼と自分の共通点がひとつだけあるんだ。
彼が書いた手紙(トップ画像)で、そのことが分かる。
…………………………………………
二週間後にはパリへ立つけど、きょうもひとクソたれておこう。
受け取るのは手紙の代わりに一通のウンチ。
ウンチだ! ウンチだ! おお、ウンチ! ああ、なんて苛い言葉だ!
ウンチ! ポンチ! こりゃうまい! クソミソ、くらえ!
ウンチ、ポンチ、クソ、なめる!
…………………………………………
わははのは!
もういっちょ、わははのは、わははのは!!
彼が「Leck mich im Arsch(僕のお尻を舐めてよ)」という楽曲(=K231、カノン)を創ったというのは有名だが、度の過ぎた尻好き・ウンチ好きはどうしたことだろう。
自分にはスカトロジーの趣味はないが、これを読むとひじょうに和むし、なんだか救われた気分になる。
あのころに自分が生きていたら、きっと大の親友になれたことだろう、、、って。
ということは、だ。
映画『アマデウス』(84)は純然たるフィクションだが、モデルとされたモーツァルトもサリエリも、けっこう本物にちかい人物像なのかもしれない。
資料を読み込み、可能なかぎり実際に近づけたのかもしれない。
我の強いナルシシストというだけで腹が立つのに、そんなガキに馬鹿にされたサリエリの怒りというのも理解出来る。
映画で描かれたように、自作をコケにされ「おかしな曲を美しい曲に変えてやった」なんていわれたら、そりゃあもう殺意だって抱くわな、、、と。
サリエリは、『黒子のバスケ』の脅迫犯とはちがうのだ。
この映画は紛れもない傑作だが、一部のモーツァルト好きには評判が悪いと聞く。
彼が徹底的な悪として描かれ、その言動は幼稚かつ下品極まりないから。
繰り返しになるが、自分なんかは「だからこそ」この映画のモーツァルトが好きなのだが、
ちょっと待ってほしい、父親と奥さんの口喧嘩に呆れ、ビリヤード台の上で作曲をするモーツァルト―このシーンで表現された孤独というものに、
監督ミロシュ・フォアマンの、天才に対する哀れみと共感を見てとれないかい?
最初に観たときは、サリエリに「ただただ同情」した。
最初だけでない、二度目も三度目もそうだった。
でも十数回と繰り返し観ていくうちに、天才の孤独がこころに突き刺さり、
キャラクターの双方を同じくらい「いとおしい」と思うようになるのである。
まぁ、つまり、なんだ。
観てないひとは、『アマデウス』を「今すぐ」観ろよって話だ。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(77)』
柄じゃあない。
真面目に映画議論を繰り広げていても、3分に1度は女優のハダカの話を入れないと気が済まないし「やっていられない」。
政治や社会ネタだって同様である。
安倍さんは遅漏っぽいとか、パソコン遠隔操作のヤツは童貞なんじゃないかとか。
だから自分に対する好き嫌いは、はっきりしている(らしい)。
そういう話を面白いと感じてくれるひとは自分に寄ってくるし、そうでないひとは自分と目をあわそうともしてこない。
うん、それでいい。
いつからそうなったのか、ガキのころからそんな感じなのか―と、思い返してみる。
・・・・・。
う~~ん、生まれつきではない、、、ような気がする。
そうなったきっかけが、ぜんぜん分からないのだった。
ただ、それで悔いを覚えたことがないので控えよう・改めようという気が起こらない。
好いた女が出来て、彼女が「そういうこと、一切合財」が嫌いだったとするならば、変わろうとするのだろうか。
・・・・・。
難しいねぇ。
禁酒や禁煙、禁自慰より難しいような気がする。
たぶん、彼女のほうをあきらめることだろう。
たまに、ごくたまに「こんなことでいいのか!?」と思うことがある。
そんな、自分が弱っているときに励ましてくれるのがモーツァルトの存在である。
天才とキチガイではちがいがあり過ぎるだろう?
たしかにそうだが、彼と自分の共通点がひとつだけあるんだ。
彼が書いた手紙(トップ画像)で、そのことが分かる。
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二週間後にはパリへ立つけど、きょうもひとクソたれておこう。
受け取るのは手紙の代わりに一通のウンチ。
ウンチだ! ウンチだ! おお、ウンチ! ああ、なんて苛い言葉だ!
ウンチ! ポンチ! こりゃうまい! クソミソ、くらえ!
ウンチ、ポンチ、クソ、なめる!
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わははのは!
もういっちょ、わははのは、わははのは!!
彼が「Leck mich im Arsch(僕のお尻を舐めてよ)」という楽曲(=K231、カノン)を創ったというのは有名だが、度の過ぎた尻好き・ウンチ好きはどうしたことだろう。
自分にはスカトロジーの趣味はないが、これを読むとひじょうに和むし、なんだか救われた気分になる。
あのころに自分が生きていたら、きっと大の親友になれたことだろう、、、って。
ということは、だ。
映画『アマデウス』(84)は純然たるフィクションだが、モデルとされたモーツァルトもサリエリも、けっこう本物にちかい人物像なのかもしれない。
資料を読み込み、可能なかぎり実際に近づけたのかもしれない。
我の強いナルシシストというだけで腹が立つのに、そんなガキに馬鹿にされたサリエリの怒りというのも理解出来る。
映画で描かれたように、自作をコケにされ「おかしな曲を美しい曲に変えてやった」なんていわれたら、そりゃあもう殺意だって抱くわな、、、と。
サリエリは、『黒子のバスケ』の脅迫犯とはちがうのだ。
この映画は紛れもない傑作だが、一部のモーツァルト好きには評判が悪いと聞く。
彼が徹底的な悪として描かれ、その言動は幼稚かつ下品極まりないから。
繰り返しになるが、自分なんかは「だからこそ」この映画のモーツァルトが好きなのだが、
ちょっと待ってほしい、父親と奥さんの口喧嘩に呆れ、ビリヤード台の上で作曲をするモーツァルト―このシーンで表現された孤独というものに、
監督ミロシュ・フォアマンの、天才に対する哀れみと共感を見てとれないかい?
最初に観たときは、サリエリに「ただただ同情」した。
最初だけでない、二度目も三度目もそうだった。
でも十数回と繰り返し観ていくうちに、天才の孤独がこころに突き刺さり、
キャラクターの双方を同じくらい「いとおしい」と思うようになるのである。
まぁ、つまり、なんだ。
観てないひとは、『アマデウス』を「今すぐ」観ろよって話だ。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(77)』