Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

アマデウスからの手紙

2014-06-08 08:01:17 | コラム
上品な振る舞い、高尚な会話は5分とつづかない。

柄じゃあない。

真面目に映画議論を繰り広げていても、3分に1度は女優のハダカの話を入れないと気が済まないし「やっていられない」。
政治や社会ネタだって同様である。
安倍さんは遅漏っぽいとか、パソコン遠隔操作のヤツは童貞なんじゃないかとか。

だから自分に対する好き嫌いは、はっきりしている(らしい)。

そういう話を面白いと感じてくれるひとは自分に寄ってくるし、そうでないひとは自分と目をあわそうともしてこない。

うん、それでいい。


いつからそうなったのか、ガキのころからそんな感じなのか―と、思い返してみる。

・・・・・。

う~~ん、生まれつきではない、、、ような気がする。

そうなったきっかけが、ぜんぜん分からないのだった。

ただ、それで悔いを覚えたことがないので控えよう・改めようという気が起こらない。
好いた女が出来て、彼女が「そういうこと、一切合財」が嫌いだったとするならば、変わろうとするのだろうか。

・・・・・。

難しいねぇ。
禁酒や禁煙、禁自慰より難しいような気がする。
たぶん、彼女のほうをあきらめることだろう。


たまに、ごくたまに「こんなことでいいのか!?」と思うことがある。

そんな、自分が弱っているときに励ましてくれるのがモーツァルトの存在である。

天才とキチガイではちがいがあり過ぎるだろう?
たしかにそうだが、彼と自分の共通点がひとつだけあるんだ。

彼が書いた手紙(トップ画像)で、そのことが分かる。

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二週間後にはパリへ立つけど、きょうもひとクソたれておこう。

受け取るのは手紙の代わりに一通のウンチ。
ウンチだ! ウンチだ! おお、ウンチ! ああ、なんて苛い言葉だ!
ウンチ! ポンチ! こりゃうまい! クソミソ、くらえ!

ウンチ、ポンチ、クソ、なめる!

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わははのは!

もういっちょ、わははのは、わははのは!!

彼が「Leck mich im Arsch(僕のお尻を舐めてよ)」という楽曲(=K231、カノン)を創ったというのは有名だが、度の過ぎた尻好き・ウンチ好きはどうしたことだろう。

自分にはスカトロジーの趣味はないが、これを読むとひじょうに和むし、なんだか救われた気分になる。

あのころに自分が生きていたら、きっと大の親友になれたことだろう、、、って。


ということは、だ。

映画『アマデウス』(84)は純然たるフィクションだが、モデルとされたモーツァルトもサリエリも、けっこう本物にちかい人物像なのかもしれない。
資料を読み込み、可能なかぎり実際に近づけたのかもしれない。

我の強いナルシシストというだけで腹が立つのに、そんなガキに馬鹿にされたサリエリの怒りというのも理解出来る。
映画で描かれたように、自作をコケにされ「おかしな曲を美しい曲に変えてやった」なんていわれたら、そりゃあもう殺意だって抱くわな、、、と。

サリエリは、『黒子のバスケ』の脅迫犯とはちがうのだ。


この映画は紛れもない傑作だが、一部のモーツァルト好きには評判が悪いと聞く。
彼が徹底的な悪として描かれ、その言動は幼稚かつ下品極まりないから。

繰り返しになるが、自分なんかは「だからこそ」この映画のモーツァルトが好きなのだが、

ちょっと待ってほしい、父親と奥さんの口喧嘩に呆れ、ビリヤード台の上で作曲をするモーツァルト―このシーンで表現された孤独というものに、





監督ミロシュ・フォアマンの、天才に対する哀れみと共感を見てとれないかい?


最初に観たときは、サリエリに「ただただ同情」した。
最初だけでない、二度目も三度目もそうだった。

でも十数回と繰り返し観ていくうちに、天才の孤独がこころに突き刺さり、
キャラクターの双方を同じくらい「いとおしい」と思うようになるのである。


まぁ、つまり、なんだ。
観てないひとは、『アマデウス』を「今すぐ」観ろよって話だ。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(77)』

コメント (1)
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