Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

老頭児

2014-06-06 07:34:00 | コラム
老頭児…中国語で年寄り・老人。日本の俗語読みで、ロートル。

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ベテラン・大御所・重鎮・名匠・巨匠より、新鋭。
映画だけにかぎらず文学や音楽、スポーツにもいえることだが、フレッシュな才能を「有難がりがち」だった自分が居る。

だが40歳になり、若い女子への執着だけは例外として、ジジイ・ババアの迫力・円熟も捨て難いよなぁ! と思うようになった。

たとえば格闘家の山本"KID"徳郁(と、その弟子たち)は、判定にまでもつれる試合内容だった場合・・・
終了のゴングが鳴ったあと「まだやれるよ」ということのアピールとして、よくリング上で腕立て伏せを披露する。

昔は「いいぞ、いいぞ!」とやっていたのだが、いまはちょっと白けてしまう。
「その体力があるのなら、パンチを決めてくれよ」なんて。

彼らのアピールより、引退間近だったころのピーター・アーツがラウンド間に見せる「ぜぇぜぇ、はぁはぁ」のほうにこころを動かされる。
自分より年上のファイターが、若くて勢いのあるファイターと互角の勝負を展開している。
でもやっぱりつらくて、そういうのが「ぜぇぜぇ、はぁはぁ」に表れている。

あぁ感動するなぁ!! って。


そういえばジャック・パランス御大がオスカーに輝いたとき、壇上で腕立て伏せを披露したっけ。

若いもんに負けるか―これですよ、これこそ真の格好よさだろう。

※最初からやるつもりだったので、立ち上がったときに腕時計を気にしている笑





ロートルという俗語は悪口に多用され、格闘技のネット掲示板などを覗いてみると、

「昔は無敵だったけど、いまは残念ながら単なるロートル」
「なんだこのメインマッチ。ロートル同士の消化試合じゃねぇか。晩節を汚すな」

などと、みんなひどいことを書いている。

分からないでもないが、敬意くらいは払おうぜと。
オメーらもどうせロートルになっていくのだし、彼ら彼女らのイキザマからなにかを学ぼうという考えがあれば、ロートルという俗語を使用しても、それは悪口には聞こえないはずだよねぇ。

愛、愛だよ、やっぱり。

(愛情に裏打ちされているという自覚を持って)敢えてロートルということばを使えば、
自分にとってのロートルは、スコセッシでありウディ・アレンでありイーストウッドである。

みんな70歳以上だが、新鋭の映画監督以上のバイタリティで映画を撮り続けている。
つーか、イーストウッドなんて先日が誕生日だったから、現在84歳。

俳優だけやっていた若いころより、元気じゃね?

「観客より大事なものが、映画にはある」―そういう哲学のもとに発表する彼の映画は、安楽死や復讐としての殺人など、きわどいテーマを扱う問題作も多いが、

自身がロートルになったからであろう、「ジジイ、頑張る」的な物語を好んで撮るようになった。

『スペース・カウボーイ』(2000)も、『グラン・トリノ』(2008)もそうだった。
そうしたキャリアの分岐点であり、結果として到達点にもなっているのが『許されざる者』(92…トップ画像)だろう。

誰彼構わず撃ち殺してきたウィリアム・マニーという男が歳を取り、己の限界を知る。

豚の世話をしているが、その豚の勢いに負けて何度も転倒してしまう。
馬に「きちんと」乗れない。
それほど遠くないところに置いた瓶に、銃弾を命中させられない。

この映画は『羅生門』(50)同様、ひとひとりを殺すことの難しさを描いていると解釈しているのだが、
若いころ、「誰彼構わず撃ち殺す」ようなキャラクターばかり演じてきたイーストウッドが撮るからこそ、そこに特別な意味が生じている、、、ような気がする。


ロートルになったからこそ辿り着く境地と、ロートルになっても「ロートルでないもの」に負けないという精神と。

いっぽうは「体力と精神の限界!」といってその場を去り、
いっぽうは「若いもんに負けるか!」と啖呵を切る。

どっちのロートルも、えれー格好いい。

そんなロートルになりたいものである。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

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明日のコラムは・・・

『怒れる牡牛の物語』

コメント (2)
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