第19部「コーエン兄弟の物語」~第3章~
「誘拐される」
「臆病者の暴力」
「静か」
「死人だらけ」
「味のある殺し屋と突然の交通事故」
「ユダヤ人が出てくる」
「平凡で地味な男がなんかやらかす」
「イケメンが居ない。ブラピ以外」
「誰も得しない」
「監督の不細工な嫁が出演する」
「安いモーテルが出てくる」
「暗い映画の次は明るい映画、次はまた暗い映画」
「デブが叫ぶ。とにかく叫ぶ」
(サイト『2ch速報、コーエン兄弟の作品にありがちな事』より)
…………………………………………
上で引用した「コーエン兄弟あるある」、ある面では正しいことばかりで、この兄弟監督のことに詳しいものならばクスクス笑いが止まらないだろう。
コーエン兄弟だけでなく、映画そのものについても詳しくない―そういうひとでも、この数分の映像マジックに触れるだけで「タダモノではない」ことが分かるはずだ。
※子どもたちがフラフープに夢中になるまで…『未来は今』より
…………………………………………
ここで唐突に、少しだけ三池崇史について書きたい。
量産型の職人監督と、(2年にいちどくらいのペースで)コンスタントに小品を撮り続ける兄弟監督と―。
共通点がないように思われるが、批評家を翻弄するという意味で、筆者にとっては「よく似た」監督なのだった。
『中国の鳥人』(98)で初めて三池を意識し、面白い作家主義の監督が出現したと喜んだ。
しかし。
ほぼ同じ時期に『アンドロメディア』(98)に触れて、アイドルを主演にした映画まで撮るのか、メインはこっちで向こうはサブなのか、いやその逆なのかと混乱した。
『DEAD OR ALIVE 犯罪者』(99)の「面白ければ筋など無視する」豪快さに仰天し、
『オーディション』(2000)を観て、根底にあるのはホラーの精神なのかもしれない、、、などと思った。
『漂流街 THE HAZARD CITY』(2000)には失望したが、
つづく『殺し屋1』(2001)の異様なテンションは、映画体験における最高レベルのものだと感銘を受けた。
暴力とエロスの、新たな描きかた。
エンド・クレジットさえ無化してしまう三池のふてぶてしさに、真の恐怖を感じた。
実際、『殺し屋1』で三池崇史を見直したと評する批評家は多かった(と記憶する)。
職人監督と捉えていたが、じつはそうではなく、哲学を持った作家主義の監督だったのだ―と。
だが三池は、そんな頭の堅い批評家たちを嘲笑うかのように、カメレオン的なキャリアを築いていく。
『ゼブラーマン』(2004)や『ヤッターマン』(2009)のような、コミカルな味つけを施したヒーロー映画、
無国籍風西部劇『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(2007)、
正統的な時代劇『十三人の刺客』(2010)、
アンチヒーロー? の物語『悪の教典』(2012)、
「気の抜けた」アクション『藁の楯』(2013)・・・。
出来不出来は置いておいて、「こういう監督である」という批評を拒否するかのような一貫性のなさ。
これは自戒の念をこめていうが、論じる側というのは得てして「決めつけがち」である。
そうしたほうが「論じ易いから」だが、三池のキャリアはそれに対し「あっかんべー」をしているように映る。
お前らの都合には乗っからないよ!!
ここに、三池とコーエン兄弟の共通点を見た―と結んだら、三池はやっぱり「あっかんべー」をするだろうか。
…………………………………………
「コーエン兄弟あるある」が証明するように、この兄弟監督の映画には一貫性がある、、、ように見える。
だがとくに初期作品をジャンル分けしていくと「まるであべこべ」であり、目指すものがどこにあるのか、よく分からなくなってしまうのだった。
『ブラッド・シンプル』(84)は、スリラー・・・というかサスペンス、
『赤ちゃん泥棒』(87)は純然たるコメディ、
『ミラーズ・クロッシング』(90)はギャング映画で、
現時点における最高傑作『バートン・フィンク』(91)は、シュールなコメディとでもいうべきか。
『未来は今』(94)はコメディで、
『ファーゴ』(96)は実録を「装った」犯罪劇、
『ビッグ・リボウスキ』(98)なんて、ジャンル分けさえ拒否するかのような、コメディタッチのサスペンス? サスペンスタッチのコメディ? だった。
北野武は、暴力と死。
塚本晋也は、都市と肉体。
黒澤明は、(やや強引だが)脂ギッシュな男の世界。
溝口健二は、女の性。
大島渚は、怒りそのもの。
スコセッシは、血と暴力とファックユー。
デ・パルマは、性倒錯とサスペンス。
キューブリックは、シニシズム。
テレンス・マリックは、映像詩人。
何度でもいうが、論じる側というのは得てして「決めつけがち」である。
コーエン兄弟の映画では、それがなかなか出来ない。
「あるある」は出来ても、それは表面をなぞったに過ぎないのではないか。
そのことを痛感させられたのは、コーエン兄弟が初めてモノクロームに挑戦した『バーバー』(2001)だった。
相変わらずスター不在の小品であるからして、日本では興行的に「ずいぶんと」苦戦した。
しかしインパクトはダイナマイト級である、なにしろ主人公の散髪屋(ビリー・ボブ・ソーントン)はなんの躊躇も逡巡もせずに犯罪を犯し、ひとを殺し、裁きになんの抵抗もせず死刑に処せられるのだから。
映画は、そんな主人公の一生を、肯定も否定もせずに「とことんクールに」描いてみせる。
この映画を公開初日に観た筆者は思った、あぁそうか、コーエン兄弟に作家性などなく、単に自分たちが面白いと思ったものを撮っているに過ぎないのだな、、、と。
…………………………………………
つづく。
次回は、11月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『散、髪。』
「誘拐される」
「臆病者の暴力」
「静か」
「死人だらけ」
「味のある殺し屋と突然の交通事故」
「ユダヤ人が出てくる」
「平凡で地味な男がなんかやらかす」
「イケメンが居ない。ブラピ以外」
「誰も得しない」
「監督の不細工な嫁が出演する」
「安いモーテルが出てくる」
「暗い映画の次は明るい映画、次はまた暗い映画」
「デブが叫ぶ。とにかく叫ぶ」
(サイト『2ch速報、コーエン兄弟の作品にありがちな事』より)
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上で引用した「コーエン兄弟あるある」、ある面では正しいことばかりで、この兄弟監督のことに詳しいものならばクスクス笑いが止まらないだろう。
コーエン兄弟だけでなく、映画そのものについても詳しくない―そういうひとでも、この数分の映像マジックに触れるだけで「タダモノではない」ことが分かるはずだ。
※子どもたちがフラフープに夢中になるまで…『未来は今』より
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ここで唐突に、少しだけ三池崇史について書きたい。
量産型の職人監督と、(2年にいちどくらいのペースで)コンスタントに小品を撮り続ける兄弟監督と―。
共通点がないように思われるが、批評家を翻弄するという意味で、筆者にとっては「よく似た」監督なのだった。
『中国の鳥人』(98)で初めて三池を意識し、面白い作家主義の監督が出現したと喜んだ。
しかし。
ほぼ同じ時期に『アンドロメディア』(98)に触れて、アイドルを主演にした映画まで撮るのか、メインはこっちで向こうはサブなのか、いやその逆なのかと混乱した。
『DEAD OR ALIVE 犯罪者』(99)の「面白ければ筋など無視する」豪快さに仰天し、
『オーディション』(2000)を観て、根底にあるのはホラーの精神なのかもしれない、、、などと思った。
『漂流街 THE HAZARD CITY』(2000)には失望したが、
つづく『殺し屋1』(2001)の異様なテンションは、映画体験における最高レベルのものだと感銘を受けた。
暴力とエロスの、新たな描きかた。
エンド・クレジットさえ無化してしまう三池のふてぶてしさに、真の恐怖を感じた。
実際、『殺し屋1』で三池崇史を見直したと評する批評家は多かった(と記憶する)。
職人監督と捉えていたが、じつはそうではなく、哲学を持った作家主義の監督だったのだ―と。
だが三池は、そんな頭の堅い批評家たちを嘲笑うかのように、カメレオン的なキャリアを築いていく。
『ゼブラーマン』(2004)や『ヤッターマン』(2009)のような、コミカルな味つけを施したヒーロー映画、
無国籍風西部劇『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(2007)、
正統的な時代劇『十三人の刺客』(2010)、
アンチヒーロー? の物語『悪の教典』(2012)、
「気の抜けた」アクション『藁の楯』(2013)・・・。
出来不出来は置いておいて、「こういう監督である」という批評を拒否するかのような一貫性のなさ。
これは自戒の念をこめていうが、論じる側というのは得てして「決めつけがち」である。
そうしたほうが「論じ易いから」だが、三池のキャリアはそれに対し「あっかんべー」をしているように映る。
お前らの都合には乗っからないよ!!
ここに、三池とコーエン兄弟の共通点を見た―と結んだら、三池はやっぱり「あっかんべー」をするだろうか。
…………………………………………
「コーエン兄弟あるある」が証明するように、この兄弟監督の映画には一貫性がある、、、ように見える。
だがとくに初期作品をジャンル分けしていくと「まるであべこべ」であり、目指すものがどこにあるのか、よく分からなくなってしまうのだった。
『ブラッド・シンプル』(84)は、スリラー・・・というかサスペンス、
『赤ちゃん泥棒』(87)は純然たるコメディ、
『ミラーズ・クロッシング』(90)はギャング映画で、
現時点における最高傑作『バートン・フィンク』(91)は、シュールなコメディとでもいうべきか。
『未来は今』(94)はコメディで、
『ファーゴ』(96)は実録を「装った」犯罪劇、
『ビッグ・リボウスキ』(98)なんて、ジャンル分けさえ拒否するかのような、コメディタッチのサスペンス? サスペンスタッチのコメディ? だった。
北野武は、暴力と死。
塚本晋也は、都市と肉体。
黒澤明は、(やや強引だが)脂ギッシュな男の世界。
溝口健二は、女の性。
大島渚は、怒りそのもの。
スコセッシは、血と暴力とファックユー。
デ・パルマは、性倒錯とサスペンス。
キューブリックは、シニシズム。
テレンス・マリックは、映像詩人。
何度でもいうが、論じる側というのは得てして「決めつけがち」である。
コーエン兄弟の映画では、それがなかなか出来ない。
「あるある」は出来ても、それは表面をなぞったに過ぎないのではないか。
そのことを痛感させられたのは、コーエン兄弟が初めてモノクロームに挑戦した『バーバー』(2001)だった。
相変わらずスター不在の小品であるからして、日本では興行的に「ずいぶんと」苦戦した。
しかしインパクトはダイナマイト級である、なにしろ主人公の散髪屋(ビリー・ボブ・ソーントン)はなんの躊躇も逡巡もせずに犯罪を犯し、ひとを殺し、裁きになんの抵抗もせず死刑に処せられるのだから。
映画は、そんな主人公の一生を、肯定も否定もせずに「とことんクールに」描いてみせる。
この映画を公開初日に観た筆者は思った、あぁそうか、コーエン兄弟に作家性などなく、単に自分たちが面白いと思ったものを撮っているに過ぎないのだな、、、と。
…………………………………………
つづく。
次回は、11月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『散、髪。』