しねふぃ「る」→「る」いまる(ルイ・マル)
まだ自分が映画「ファン」だった高校生のころ、映画「小僧」に憧れて、小僧であればクリアしていて当然のクラシックを片っ端から鑑賞していった。
(ファンと小僧のちがい、その定義などは「ひじょーにあやふや」なので、ここでは記さない)
そうして、ルイ・マルの映画に出会った。
当時の自分は「質より量」で、学校を休んでまで1日に3本くらいの映画を制覇しようとしていた。
そのくらいやらなくては、年間400本は鑑賞出来ないものね。
(高校2年時の鑑賞数は、422本だった)
ただ、計画を立てていた本数をこなせない日もあった。
友達が少ないので、急な予定が入ることは「まず」ない。
当時から健康馬鹿だったので、体調が悪くなることもなかった。
ある映画が衝撃的に過ぎて、2本目3本目の鑑賞が出来なくなったのである。
それが『タクシードライバー』(76)と『キャリー』(76)、そして『死刑台のエレベーター』(58)だった。
前の2本は内容にショックを受けたが、『死刑台のエレベーター』はちがった。
当時25歳だったルイ・マルという男の、映画監督としての「あまりの」成熟ぶりに、なんというか、映画業界への憧れを強くしていた自分の「自信、みたいなもの。」が揺らいでしまったのだ。
まだ演出術などを学んでいなかった、ガキのころの話。
それでもルイ・マルの才能が「とんでもない」ことは、はっきりと分かった。
63歳で亡くなるまでのあいだに、20数本の映画を監督。
同じフランス出身の監督でいうと・・・
ゴダールより尖っているわけではなく、トリュフォーより自由でない感じがして、う~ん、正確に評しているかは疑問だが「きっちり、映画を創っている」印象を受ける。
かなり前の話だが。
父親がレンタルビデオかなにかで、2本の作品を鑑賞し感想をメールで送ってきたことがあった。
『死刑台のエレベーター』と、香港産の『哀戀花火』(93)。
「いっぽうは落ち着いていて、いっぽうは闇雲。でも、どっちも映画。面白いね」
あぁなるほど、そのとおりだなと思った。
エレベーターの停止によって、脆くも崩れていく完全犯罪。
改変しようのない完璧な脚本だが、2010年に日本がリメイクしている。
企画のニュースを聞いただけで誰もが「大失敗!」を予想していたが、ほんとうにそうなったので笑ってしまった。
いちばん可哀相だったのは、ゲロ吐く演技までした北川景子かな。
まあいいや。
裕福な家庭に育ったルイ・マルは、56年のドキュメンタリー映画『沈黙の世界』で監督デビューを飾る。
その2年後に『死刑台のエレベーター』を放つわけだが、制作費のすべてをルイ・マルが負担した「ほぼ」自主制作であったこともオドロキのひとつである。
この映画が「まぐれ」でなかったことは、のちのキャリアを眺めればすぐに分かること。
技巧を凝らしたコメディ『地下鉄のザジ』(60)、青年が自死するまでを追う『鬼火』(63)などでヌーヴェル・ヴァーグをおおいに盛り上げる。
70年代に米国へ移住、ギャングと女賭博師を主人公とした快作『アトランティック・シティ』(80)を発表し、アクションもこなせることを証明した。
80年代後半―母国に戻ると、やや政治色の強い映画を撮るようになっていく。
自身の体験記『さよなら子供たち』(87)、五月革命を背景にした『五月のミル』(89)、
そしてロードショーという形では、個人的に初のルイ・マル映画体験となった『ダメージ』(92)などなど。
ジェレミー・アイアンズとジュリエット・ビノシュのセックスシーンが話題になった―というか、それしか話題に「なりようがなかった」映画であり、ルイ・マル唯一の失敗作だったように思う。
それでも。
映画小僧を名乗り始めた自分は、「ルイ・マルは枯れた」とか「失望した」とは思わなかった。
すんごいキャリアの監督だもの、「こういうことだって、あるさ」と、なぜだか安心感さえ抱いたのだった。
血が通っていない―そのくらいのバケモノだと解釈していたからかな?
あすのしりとりは・・・
るいま「る」→「る」ーだいあもんどふぃりっぷす。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(158)』
まだ自分が映画「ファン」だった高校生のころ、映画「小僧」に憧れて、小僧であればクリアしていて当然のクラシックを片っ端から鑑賞していった。
(ファンと小僧のちがい、その定義などは「ひじょーにあやふや」なので、ここでは記さない)
そうして、ルイ・マルの映画に出会った。
当時の自分は「質より量」で、学校を休んでまで1日に3本くらいの映画を制覇しようとしていた。
そのくらいやらなくては、年間400本は鑑賞出来ないものね。
(高校2年時の鑑賞数は、422本だった)
ただ、計画を立てていた本数をこなせない日もあった。
友達が少ないので、急な予定が入ることは「まず」ない。
当時から健康馬鹿だったので、体調が悪くなることもなかった。
ある映画が衝撃的に過ぎて、2本目3本目の鑑賞が出来なくなったのである。
それが『タクシードライバー』(76)と『キャリー』(76)、そして『死刑台のエレベーター』(58)だった。
前の2本は内容にショックを受けたが、『死刑台のエレベーター』はちがった。
当時25歳だったルイ・マルという男の、映画監督としての「あまりの」成熟ぶりに、なんというか、映画業界への憧れを強くしていた自分の「自信、みたいなもの。」が揺らいでしまったのだ。
まだ演出術などを学んでいなかった、ガキのころの話。
それでもルイ・マルの才能が「とんでもない」ことは、はっきりと分かった。
63歳で亡くなるまでのあいだに、20数本の映画を監督。
同じフランス出身の監督でいうと・・・
ゴダールより尖っているわけではなく、トリュフォーより自由でない感じがして、う~ん、正確に評しているかは疑問だが「きっちり、映画を創っている」印象を受ける。
かなり前の話だが。
父親がレンタルビデオかなにかで、2本の作品を鑑賞し感想をメールで送ってきたことがあった。
『死刑台のエレベーター』と、香港産の『哀戀花火』(93)。
「いっぽうは落ち着いていて、いっぽうは闇雲。でも、どっちも映画。面白いね」
あぁなるほど、そのとおりだなと思った。
エレベーターの停止によって、脆くも崩れていく完全犯罪。
改変しようのない完璧な脚本だが、2010年に日本がリメイクしている。
企画のニュースを聞いただけで誰もが「大失敗!」を予想していたが、ほんとうにそうなったので笑ってしまった。
いちばん可哀相だったのは、ゲロ吐く演技までした北川景子かな。
まあいいや。
裕福な家庭に育ったルイ・マルは、56年のドキュメンタリー映画『沈黙の世界』で監督デビューを飾る。
その2年後に『死刑台のエレベーター』を放つわけだが、制作費のすべてをルイ・マルが負担した「ほぼ」自主制作であったこともオドロキのひとつである。
この映画が「まぐれ」でなかったことは、のちのキャリアを眺めればすぐに分かること。
技巧を凝らしたコメディ『地下鉄のザジ』(60)、青年が自死するまでを追う『鬼火』(63)などでヌーヴェル・ヴァーグをおおいに盛り上げる。
70年代に米国へ移住、ギャングと女賭博師を主人公とした快作『アトランティック・シティ』(80)を発表し、アクションもこなせることを証明した。
80年代後半―母国に戻ると、やや政治色の強い映画を撮るようになっていく。
自身の体験記『さよなら子供たち』(87)、五月革命を背景にした『五月のミル』(89)、
そしてロードショーという形では、個人的に初のルイ・マル映画体験となった『ダメージ』(92)などなど。
ジェレミー・アイアンズとジュリエット・ビノシュのセックスシーンが話題になった―というか、それしか話題に「なりようがなかった」映画であり、ルイ・マル唯一の失敗作だったように思う。
それでも。
映画小僧を名乗り始めた自分は、「ルイ・マルは枯れた」とか「失望した」とは思わなかった。
すんごいキャリアの監督だもの、「こういうことだって、あるさ」と、なぜだか安心感さえ抱いたのだった。
血が通っていない―そのくらいのバケモノだと解釈していたからかな?
あすのしりとりは・・・
るいま「る」→「る」ーだいあもんどふぃりっぷす。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(158)』