Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

ホラ吹きか、誇大妄想か→似合う? ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.20~

2012-03-21 00:15:00 | コラム
クラスにひとりは居る―といえば・・・
優等生、イケメン、美少女、スポーツマン、チビ、ヤセ、ノッポ、デブ、ヤンキー、早熟、晩熟というかガキ、理性型、激情型というか「キレ」キャラ、ウンコもらし、机のなかにカビパン野郎、ネアカ、ネクラ、天然、暴力至上主義、ホラ吹き、、、って、これだけ揃ったら間違いなく学級崩壊になるか。

「ひとりにひとつ」の特色であれば問題にもならぬが、
神は不公平で、たとえば優等生のイケメンはスポーツマンだったりする。
こんなヤツは敵でしかないが、小学校から高校まで同じだった石川くんがまさにその典型で、しかし、同窓会で再会する度に劣化がひどくなっている。

これは、どうしたことか・・・って余計なお世話だし、そもそもが失礼な話なのだが、
酔った勢いで本人に聞いてみたことがある。
「どうしたんだよ、石川くん。君みたいな完璧なヤツが崩れていくっていうのは、最初から崩れている自分みたいな男からすると、耐えられないんだよ」って。

石川くん、ただ苦笑するのみ。

まぁ、そうだわな。
失礼しました。


自分の場合、マイナスの要素をいくつも備えてしまった。
デブであること、手癖が悪いことは記したが、おまけに病的なホラ吹きだったのである。

よく脱したものだねぇ、自分・・・じゃなく、養うことを放棄しなかった「とーちゃん・かーちゃん」を称えたい。

口を開けば、ホラばかり吹いていた。
周囲の気を引きたいというか、自分を少しでも大きく見せたかったんだと思う。

虚言癖のあるものは大概がそうで、「ない」ものを「ある」といってしまう虚言の基本形? から、
「出来ない」もの「出来る」、「居ない」ものを「居る」、
さらには「起きていない」ことを「起きた」と語る、よくいえば稀代のストーリーテラーのような立ち位置を獲得していく・・・とはいってみたものの、いまから思えば、そうしたホラの数々を、聞き手はどれだけ信じていたのかと疑問を抱く。

最初は信じていた、、、はずである。
しかし、いくらストーリーテラーといえど、穴というものは必ず存在するもので。
ひとつ目の穴が見つかれば、ふたつ目の穴は必ず見つかる。みっつ、よっつと増えていけば、「またかよ…」と思うはずであり、
実際、「またホラ?」なんてストレートに突っ込まれる場合もあったが、
じつはクラスメイトの大半は、自分のことを不憫、あるいは誇大妄想だと捉え、甘んじて騙されていたのかもしれない・・・と思うこともある。
だって子どもって、そんなに馬鹿じゃないぜ―と、おとなになってから気づいた。


大きな嘘ほど、ひとは信じる―といったのは、ヒトラーだったか。
この感覚、ちょっと分かる。

という自分、そりゃ、見た目は努力で変えられるかもしれない。手癖の悪さも「バチ」が待っていれば、おとなしくしていられる。しかしホラという内面のビョーキは、ほんとうに完治したのだろうか。

その自覚、、、というより自信みたいなもの―が揺らぐときは、確かにある。
そこで編み出したのが、ハッタリという処世術だった。

『大辞泉』には、

(1)相手を威圧するために、大げさな言動をしたり強気な態度をとったりすること。また、その言動。

(2)なぐること。また、おどすこと。

とあるが、
自分のハッタリは、もう少し柔らかというか自虐性を帯びているというか。

短所や病的なところを強調し(なぜか)誇ることによって、自我を保とうとしているのである。
これもどうかと思うが、ホラと見破られながらホラを吹き続けているさま―よりかは滑稽ではないだろう。

だから座右の銘は、
数年前までは「猪突猛進」だったはずなのに、現在は「はったりでいこう」に変わっている。


さて。
映画の世界におけるホラ吹きといえば、
日本では『全身小説家』(94)の井上光晴、
外国では『ユージュアル・サスペクツ』(95)のヴァーバル・キントになるか。

近親者や隣人であれば迷惑このうえないが、
映画の世界では、ふたりは神々しく輝いていた。


結論。
ホラでもっとも大切なのは、本筋ではなく細部である―いや、これは経験からいうのではなく、偉大なホラ吹き二傑から学んだことである。


※「どんでん返し」ばかりが注目され、ピンときたひとは「たいした作品じゃない」などというが、
いやいや、そんな浅い映画ではない。
この映画のほんとうのテーマは、集団心理の力学、そして、都市伝説はいかに作られるか―なのだった。






つづく。

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明日のコラムは・・・

『似合う?→「素」まいる ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.21~』


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むかし盗人、いまは…→ホラ吹きと誇大妄想 ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.19~

2012-03-20 02:00:00 | コラム
手癖が悪い―「超」肥満児になる前の自分に相応しい形容は、こうなる。
ほとんどビョーキ、、、といってよかった。

窃盗に走る少年少女の8割くらいの動機は、「ドキドキ」を味わいたい―というもの。
自分の場合、「ドキドキ」なんて不必要だった。
単に欲しいから盗る、ただそれだけの動機。ドキドキせずに、意中のモノをゲットしたかった。

この分野、
一度や二度は・・・といわれるが、一桁を超えれば「通る道だから」などといっていられなくなる。
何度も職員室に呼び出される「かーちゃんの涙」を見て改心を誓うが、それも1日経つと忘れる。

しだいに「牧野さんちの子とは、遊んじゃいけないよ」といわれるようになり、孤立感を深める。
だからひとり遊びが上手になり、自分の場合、その遊びが「たまたま」窃盗だった、、、ということかもしれない。

そうか、ひとり遊び好きは、このころからか。どうりで自慰が好きなわけだ、なるほど~。。。

などといっている場合じゃない、この世の、人生の不思議というか、
そんなヤツが成人後、窃盗犯を捕まえる「私服保安員」をやることになるのだからシュールである。

よくいえば、経験が活きた・・・といったところか。


いわゆる万引きGメンのドキュメンタリーは、「ちょうどいい非日常性」が好評なのか、夕方のニュースなどで飽きることなく企画が繰り返されている。
自分がクソガキだったころは私服保安員(万引きGメンではなく、こっちが正式な職業名)は市民権を得ておらず、しかも群馬の「ド」田舎だったから、

保安員に捕まる→店の事務所で説諭→警察に通報→警察で説諭→身柄引受人として親類登場、、、

などという「まどろっこしい」手順は踏まない。
捕まえられたら、すぐに親が引き取りに来る。と同時に、学校に通報される、、、という流れ。

時代と、ド田舎故郷に感謝しなければなるまい。
なぜなら捕まえるほうを経験してみて、こんな辱めは受けたくない―と思ったから。

店長の視線、事務所で休む店員の視線、保安員の視線、警察の視線、そして身柄引受人の視線・・・あらゆる視線が痛いのだ。

基本、男子は馬鹿である。
だから逮捕歴などを誇るヤツが(20代はもちろん、30代でも40代でも)居て、頭を抱えてしまうのだが、
自分も超のつく馬鹿ではあるものの、こういう連中とはちがうところのネジが抜けている。だから前科に関しては、ただ恥ずべきことである、、、という意識しかない。

前科はゼロのほうがいいに決まっているし、
何事も経験―というのは、自分とは無関係なことだから、、、と思っているひとの意見が大半だと思う。


印象的な盗人のキャラクターが登場する映画は多いが、ひとつ挙げるとするならば、大好きな『グッドフェローズ』(90)だろうか。
盗みと殺しを生業とするギャングたちを活写した実録風の物語であり、
実際に起こったルフトハンザの強盗(当時、史上最高の被害額だった)にも触れている。

自分が盗っていたのは、100円のジュースとか菓子類。
彼らはゲンナマ。
額が問題ではないかもしれないが、しかし自分は「継続は力なり」ということばを間違った方向で信じ、ジュース窃盗を半年間は続けた。
180日として、ジュースだけで18000円。そこに菓子などが加わり、少なくとも30000円にはなる。
じゃあ半年でやめたのかというと、別の店で(やっぱり)菓子などを盗っていたわけで、
さらにいえば「とーちゃんの紙幣アルバム」から旧万札を盗ったり、
かーちゃんの財布から現金を盗ったり、
とにかく様々な場所で「そこそこのもの」を盗っていたのだから、結果、被害額は300000円以上にはなる(はず)。

ルフトハンザ強盗団や、府中の3億円犯人、立川の6億円強盗団は笑うだろうか。

そうだとしても、少年らしい可愛げのある犯罪とはいえない。

法的には時効かもしれないが、そんなことをネタにしてモノ書いているヤツにはバツを・・・ということだろう、二ヶ月前、買ったばかりの自転車が盗まれた。
ママチャリではない、ン万もする高級チャリである。

怒りがないといえば嘘になる、
しかし最初に出たことばは、「あぁ、バチかぶったんだ」だった。

因果応報、世の中、よく出来ていると「ほんとうに」思う。

バチなんか、いちどもないよ。悪いこと、散々してきたけど・・・なんていうアナタ、「まだ」起こってないだけで、これからなんだよきっと。

こころして、待ちましょう。


※『グッドフェローズ』より。
日本人で最もこの映画に精通している、、、といっちゃおうかな。
そのくらい、観ている。






つづく。

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小錦かドラえもんか→むかし盗人、いまは… ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.18~

2012-03-19 13:09:43 | コラム
現在は自分大好き人間、
しかし10代前半の自分は、自分のことが嫌いだった。大嫌い。

そこに存在しているだけで、周囲の温度を上げる。汗をかく。左手には瓶のサイダー、右手にはポテトチップス―典型的な、肥満児だったからだ。

スーパーLサイズのGジャンに、毛玉のいっぱいついたスウェットが泣かせる。
青だからドラえもんに見えるが、
こういう「伸び~~~る」服しか着れなかったのだからしょうがない、とにかく動くことが嫌いで、年がら年中食べていた。

現在の自分は年がら年中「自慰」をしており、「入れる」から「出す」に変化しただけで、どちらもイタい感じではある。
ではあるが、少なくとも「ひとの食欲を殺す見た目」(=映画『セブン』(95)で、「ド」肥満男を殺したジョン・ドゥは刑事にこういっていた)ではなくなった。


肥満が罪とは思っていない。
これは自意識の問題で、本人がそのままでいいと思えば、それでいいのだろう。
自分は、そう思わなかった・・・というだけの話。

「小錦」を自称し、自虐的な笑いを取ることにウンザリしていた。
そういう自虐傾向から「コイツには、なにをやってもいいんだ」みたいな空気が出来て、いじめの対象にもなった。
さらに「オトシゴロ」であり、早いとこ童貞を捨てたかった。

そういうことが重なって、
しかも努力しているところを他者に見せたくないという理由から、高校1年の夏休み40日間を使ってオリジナルの減量を試みた。


(1)1日1食、トマトか豆腐のみを食す。

(2)身体全体にサランラップを巻き、炎天下を走る。

(3)ひたすら自慰をする。最低でも5回を超えることを課したが、気持ちいいものだから平均7回は出来た。


その結果、110㎏の体重が70㎏以下となる。


40日間で約40㎏の減量に成功、1日1㎏落ちた計算になり、つまり、小さな女子ひとりが神隠しに遭った? ようなものである。

運動が好きになり、いじめから脱し、そして童貞を捨てるのも、それから数ヶ月後のことだった。


「見た目」というテーマは、ヒトがこころを宿して以降に永続されてきた最大のテーマのひとつだろう。
「見た目じゃないよ」というひとも居れば、「見た目が肝心」というひとも居る。
本音と建前、理想などが骨がらみになっている感があるが、印象という点では見た目が最重要となるのは事実。

気にし過ぎるのもどうかと思うが、
まったく気にしないというわけにもいかない。

バランス、バランスかなぁ。


ところで古今東西の映画監督のなかで、いちばんの博愛・平等主義者は誰だと思う?

チャップリンでも、今井正でもない、
映画ファンのなかには「え?」というひとも居るかもしれないが、
ピーター&ボビー・ファレリー兄弟、なのではないか。

身障者を笑う、あんな下品なヤツらが?

そう。

嘘だと思うなら、『愛しのローズマリー』(2001)を観返してほしい。
メンクイの醜男が主人公のコメディだが、内面の美しい女性が「(見た目まで)美しく見える」という催眠術をかけられ、100㎏を超える女性に一目惚れしてしまう。
周囲の「見た目」とのギャップが笑える前半から一転、
後半に入ると、火傷によって「見た目を壊された」子どもたちが登場し、その子たちと戯れるヒロインを通じ「見た目って、なにかね」と問いかけてくる構造になっているのだ。

笑いを十字架から解放させようとするファレリーは、博愛主義者でもあったのか!!

と、打たれた記憶が鮮烈に残っている。


そういう意味で期待するのは、沢尻エリカが(きっと)脱いでいる新作映画『ヘルタースケルター』だ。
原作者・岡崎京子の状態も気になる―交通事故でリハビリ中、、、とされているが、事故はもう、何年も前のこと―が、
この物語は元「デブ専」風俗嬢であり、全身整形によって生まれ変わった「美女」を主人公にしているのだから。


『ヘルタースケルター』公式サイト






つづく。

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あし足アシ脚→小錦かドラえもんか ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.17~

2012-03-18 00:15:00 | コラム
ほとんどのひとが身体の「どこか」にコンプレックスを抱くものだとは思うが、
肥満児だったという過去があるからか、身体に対する他者からの評価を「異常に気にする」という傾向が、自分にはある。

現在でもときどき、悪夢―昔の体型に戻っている―を見て汗びっしょりになるときがあるくらい。

肥満児だったころのあれこれは、明日のコラムに譲るとして・・・
無駄に中途半端に鍛えている自分がよくいわれるのは、胸囲と脚の太さである。

「すごいよね」と、ただヒトコト。

悪い気はしない。
というか、すげーうれしい。

胸囲は生まれつき、らしい。
産婦人科の先生が、かーちゃんに「胸の“たいへん”厚い子です。太り易い体質かもしれません」と、予言めいたことをいったくらい、なのだもの。
先生の所為で? きっちり肥満児となり、ヤバイヤバイと阿呆な減量を試みた。
痩せても胸の厚さはそのままで、だからいろんなところで初対面のひとに「なにか、されているんですか」と聞かれる日常が続く。

脚は自転車好きで、関東圏内であればチャリOK―というスタイルにより太くなった。ジョギングも続けているので、細くなることはないだろう。

右脚に、0歳のころに負った火傷の傷が残る。
左脚の膝は、半月板が「ちょこっと」しか残っておらず、靭帯のひとつは死んでしまった。

なんだか怪我自慢みたいだが、まぁそのとおりだ。
そんな傷だらけの自分の脚が大好きで、スーツと柔道着以外のズボンを穿く際は、必ずハーフパンツというスタイルを通している。
脚美人が冬でも我慢してナマアシ&ミニスカで居るのと同じこと、傷だらけの逞しい脚を皆に見せたくて、ハーフパンツを穿き続けているのであった。

そんな自分、女子の身体のパーツで最も好きなところも、当然のように脚となる。

フェティッシュということばは世に浸透する前から使用していたが、フェチと略され軽いことばになってからは自称しなくなった。
自分はビョーキだよ、膝小僧で射精出来るんだもの、そこまでイク、、、じゃない、いくひとこそフェティッシュだったのに・・・と思っている自分は、以降、脚キチガイと自称するようになる。

ミニスカを穿くか穿かないかで、(ハニーと)別れる別れないの話まで展開する喧嘩をしたことも、一度や二度ではない。
つまり街を歩くだけで、軽く4~5回は脳内射精している。
なんてシアワセでゴキゲンなヤツなのだろう。

著名人の同志といえば、文豪・谷崎と映画監督・トリュフォー、そして映画小僧QTことタランティーノか。
しかし谷崎とQTは、どちらかというと「足指あたり」を偏愛しているらしく、
ふくらはぎから内腿にかけてを愛する自分とこころを通わせられる? のは、どうやらトリュフォーひとり、、、のようである。


というわけで。
ブログなどで散々こういうことを恥ずかしげもなく書いている自分と
「どうしても会って話す用件のある」、
けれども恋愛対象「ではない」とする女子は、ジーンズにブーツという完全防備でやってくるのだ。

哀しい現実、
こういう日の帰宅してからの自慰は、悔しくて悔しくて「二度ほど」頑張ってみるのだった。


最後に。
身体的なコンプレックスをテーマにした読み物で、最も「お!」というか「へぇ」と思ったのは、整形や豊胸手術を繰り返した中村うさぎによるもの。

若い男子とねんごろになったとき、彼が「後背位」でしか「それ」を了承しなかった―という内容だった。
決して対面しようとはしない、つまり顔は見なくていいというか、顔を見ないようにしていた、、、と。

これも哀しいし、辛い。

そうして彼女は、整形を決意したのだと。

ただ、これをいっては彼女の努力と決意にケチをつけることになってしまうのだが・・・
整形前の、柔らかな印象を抱かせるうさぎのほうが、個人的には好きだった、、、のだけれども。


理想の脚は、かしゆかです。




つづく。

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酔いどれで、イク。→あし足アシ脚 ~自分を構成する「あらゆるヒト・モノ・コト」vol.16~

2012-03-17 02:00:00 | コラム
酒も煙草も、やる。
休肝日も休肺? 日もなく、年がら年中、スパスパやってゴクゴクやっている。

喫煙に関していえば、近年はとくに肩身が狭くはなっている。
なってはいるが、いまのところ人間関係にひびが入るような事態には陥っていない・・・というのは、自分が思っているだけのこと、、、だったりして。
ただ職業柄、喫煙者は多く、
ハニーになるひとも「たまたま」喫煙者ばかりで、そこらへん? で揉めることもない。
さらにいえばマナーもきっちり守っているほうなので、そこまでやって嫌われるのであれば、あぁどうぞ嫌ってくださいと思う。


酒は、ビール党。
ワインも日本酒もいけるが、延々と呑み続けていられるのはビールだけ。

ちなみに愛飲煙草はセブンスター、ビールはシルクのエビス。
前者は浮気出来ず、後者は発泡酒でも第3のビールでもオッケイ。


先日、きったねー男どもの集まりで「まっき~は、量もそうだけれど、(ジョッキを空ける)スピードが尋常じゃないんだよね」などと評されていたのだが、
少し離れた位置で煙草をくわえていた(ひと回りくらい上の)ジジイAが失笑している―ように見えたので、

「Aさんは、お酒、呑まれるんですか」と聞いてみると、

「うん、二升くらいいくよ」といってきたものだから、杯を交わす? 前から敗北宣言しておいた。

格がちがうんだね、格が。

まぁ、その程度の酔いどれであるということ。


酔いどれ映画のチャンピオンといえば、日本では黒澤の『酔いどれ天使』(48)、外国ではニコラス・ケイジの『リービング・ラスベガス』(95)だろう。
挑戦する権利? があるのは、堤真一の『MONDAY』(99)あたりか。

どの作品にも愛すべき酔いどれキチガイが登場するが、
たとえば『アマデウス』(84)のモーツァルトがワインを呑みながら作曲していたように、
ビールを呑みながらモノを書けるかというと、ちょっと自信がない。

何度か試したことはあるものの、そのまま発表するだけのレベルに達していなかったことは確かである。

モノを書くときは、濃いめのブラックコーヒーと煙草。
アルコールは必要ないが、書くためには煙草が不可欠。煙がないとモノを書いている気がしないというのは、ある意味でドラッグであり、また、ある意味では「まじない」みたいなもの、、、なのだと思う。

だからといって原稿がボツになったとき、「煙草が吸えなかったからだ」とはいわないが、
「勃たなかった」イイワケとして、「酔っていたから」とする男子は多い。

いやいや、そのへんは(いまのところ)大丈夫。
しらふでも酔いどれでも、自分は、やることはやるから。

・・・って、誰に主張しているんだか。


それはそうと。
居酒屋で呑むと、あらゆるテーブルから「ハイボール!」という注文が聞こえるようになった。

仕掛け人? もこれほど市民権を得るとは思っていなかっただろうが、確かに美味。

ジョッキのビール5杯を空けたら、口直し? としてハイボール1杯、そのあと再びビール、、、というのが、最近の自分の楽しみかたである。






つづく。

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