『童子』6月号が届きました。
去る5月16日に急逝された俳人加藤郁乎先生の告別式で、辻桃子主宰が捧読した弔辞が全文掲載されています。郁乎先生のことは、私はここで語るほど勉強していないので申し訳ないのですが、俳句という分野にとどまらない文学者が一人またこの世を去られたという認識です。
昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 郁乎
冬の波冬の波止場に来て返す 郁乎
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
さて、この号には、
貸切りの小さき店や鳥の恋 あぶみ を含む5句が載っています。
また、主宰の句についての鑑賞文を寄稿させていただきました。これは短いものなので、全文を転載いたします。
小鹿田焼櫛目するどく神旅に 辻 桃子
竈には荒神様が、田には田の神様(かんさん)が、トイレにはトイレの神様が? というのが日本。原子力発電所を建てるときでさえ、地の神を鎮めるべく地鎮祭を行っていた。同じ号の桃夭集に《炉火焚くや韓よりきたる神祀り》とあるように、隣国からは陶師達が韓の神を伴い日本に渡ってきたのだから、神は多彩だ。
さて焼き物は地から生み出され、いずれ時を経て地にかえる。しかし人が放った放射能がその地を汚し続けている今、掲句の櫛目の鋭さは写生であるが、心情としての引っ掻き傷とも感じ取れる。
神無月には韓の神もまた出雲へ行き、国際交流をしているのだろうか。そして二〇一一年、神々は出雲でどんな会議を開いたのだろう。轆轤で土を器に盛り上げる陶師も、見つめる俳人も、その様は祈る姿に似ている。俳人は祈るがごとく言の葉を吐き続けるしかなく、辻桃子の「自然に帰依している」という言葉が思い出される。
(二〇一二年三月号「桃夭集」より)
また今号では、『小熊座』の渡辺誠一郎氏が、4月号の私の句
富士塚の裏を啄み寒雀 あぶみ
を取り上げ、鑑賞してくださっています。一面識もない方が、500人×5句の中から拙句を取り上げてくださったわけですから、光栄の極みです。ここで叫んでも聞こえるわけはないのですが、ありがとうございました。
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