たそがれオヤジのクタクタ山ある記

主に北関東の山を方向音痴で歩いています。山行計画の参考にされても責任は負いかねます。深慮せず軽く読み流してください。

足尾<坑夫滝>。つれづれ雑記。

2018年08月30日 | 雑記
◎2018年8月30日(木)

 退院から一週間が経った。多くの方からお見舞いのコメントをいただきうれしかった。ことに、実体験をもとにいただいたアドバイスはかなりの励みにもなっている。
 今、地元の整形外科に通っている。つくづく、右足でなくてよかったと思う。右足なら車の運転もできやしないし、妻の手と時間を煩わすことになる。
 毎日が長い。松葉杖では何もできない。通院以外の外出はしない。終日、ベッドに横になって本を読んでばかりいる。幸いにも未読の本が15冊もあったし、息子の漫画本もある。テレビは元からあまり見ず、せいぜい、昔のサスペンスか時代劇を眺めているくらいだがすぐに飽きる。
 松葉杖歩きは不安定だ。手には何も持てず、家の中でも必要物を入れたバッグを首に提げて移動している。病院の帰りにコンビニに寄り、タバコを買い、右手に袋を持ってレジから離れようとしたらふらつき、店のオネエちゃんに「大丈夫ですか?」と言われてしまった。今朝もまた、コーヒーをカップに入れたまではよかったが、イスに至るまでに半分近く床にこぼしてしまった。そして拭き取るのに体力を消耗してぐったり。
 同じ姿勢でずっといるのがつらく、パソコンの前でもしばらくすると苦痛になってくる。何といっても厳しいのが二階との往復。寝室と自分の部屋が二階にあり、これはどうにもならず、一日四~五回ほどの往復になる。松葉杖の階段歩きは危ういもので、転落しそうになって、今は安全策で尻で昇り降りしている。これがかなりの重労働で、片道だけでも汗だくになる。おかげで、腕、胸、腹の筋肉だけは衰えることはなさそうだ。
 専用の防水足入れ袋をアマゾンで購入したから、シャワーとトイレだけは問題なく済ませている。ただ、こんな生活が少なくとも一か月は続くのかなと思うと、かなりげんなりしてしまう。辛抱するしかないことは重々承知なのだが、ここのところ涼しくなってほっとはしているものの、今日のようなぶり返しの暑さの中では気持ちも萎えてくる。

 滑落事故のあった19日。当日は何も考えていなかったが、退院して家で落ち着いたら、あれっ、そういえばと思い、手帳で調べると、奇しくもこの日は三年前に亡くなった父の命日であった。それに気づいた時、複雑な気持ちになった。そして、良いように考えるようにした。父が死んでいたかもしれないオレを脱臼骨折だけで済ませてくれたのではないのかと。
 あまりこんなことにこだわるタイプではない。こだわっていたら、命日だから山に行くのはやめにしようということになっていたし、それ以前に命日がそろそろだなと思っていたくらいのことで、当日とは思ってもいない。こんな因果はこじつけのようなものでしかないのだが、何となく因縁めいたものを感じる。

 「坑夫滝」にはちょっとしたこだわりがあった。この滝の名称の由来だ。
 足尾にも滝はたくさんあるが、そのほとんどが「○○沢の大滝」とか「〇m滝」で、固有名称のある滝は坑夫滝と小滝くらいではなかろうか。その小滝とて、あの滝のことだろうと推定されているだけの滝だ。いろいろ調べても、坑夫滝の名称の由来は、結局はあやふやなままだったが、滝を間近に見れば、何となしのレベルではあっても、「悲話」の感慨を少しは持てるかなといった思いがあった。

(坑夫滝の看板)


(坑夫滝がチラリ)


 庚申林道を歩いて行くと、嫌が上にも目に入る看板。<坑夫滝(光風の滝)>。滝はそれらしき音はすれども木立に隠れて見ることはできない。冬枯れの時季にちらりと一角が見えるだけの滝だ。この看板に添えられた「悲話を秘めた」という言葉がいまだにずっと気になっている。
 何十年も前にここを歩いて、この「悲話」がどんなものか調べたことがある。確か、前後関係は忘れたが、亡くなったか、失恋した鉱夫を慕って娘が身を投じて死んだということだったような気がする。実のところ、当時、確かに自分で調べたのかどうか、それが実話だったのかも、今になって思うと怪しいところがある。
 この看板を見る度に、この、自分で勝手に作り上げたのかもしれない逸話を想起していた。

 ここ一年ばかりのことだが、坑夫滝を間近に見てみようと思うようになると、その悲話のことがやたらと気になり出し、改めてネットで調べてみた。
 情報は皆無に近いが、やはりその悲話に興味を持った方がいて、「調べたら、重労働に倒れた多くの坑夫がまだ生きながらにして葬られた」とあった。あながち、これが正解なのかもしれない。葬られたのは、おそらく、大陸、半島の人たちのことだろうことは想像に難くない。だが、ここに娘は登場しない。
 手持ちの本を調べてみる。『銅山の町 足尾を歩く』や『足尾銅山 歴史とその残照』を読んでも悲話はおろか坑夫滝のことには何も触れられてはいない。銅山そのものに関係ないからなのか、山歩き方面には疎い著者だからなのか…。
 岡田氏の『足尾山塊の沢』には「光風滝…元の名は鉱夫滝と呼ばれ、足尾銅山で働いていた鉱夫が一命を落したという、悲話が伝えられている」とある。どうも、悲話は、鉱夫の死に絡んでいることに間違いはないようだ。
 ちなみに、M氏の『皇海山と足尾山塊』では「この滝は足尾銅山の坑夫が体を洗ったという謂われから…」とあるが、失礼ながら、水浴に悲話なんぞあるはずはないだろうし、自分の狭い見識では、あの辺に坑口や飯場があったという話も聞いたことはない。ただ、その先に根利につながる索道が築かれていたことは事実ではあるが。
 結局、ネットでも本でも、確たる悲話に接することはできず、どうも釈然としなかった。娘の件は、自分の勝手な想像だったのか。どうしても、悲話=女性がらみ、恋愛がらみといった設定は世間の悲話によくあることだし。
 つまりは、こうして滝の名称の由来は未解決のままになっている。

 脈絡もない話だが、夏目漱石の『坑夫』に、悲話のヒントはないものだろうかと読んでみた。
 この小説の舞台は足尾銅山らしい。「らしい」というのは、小説を読んでも、足尾の「足」の字すら出てこないからだ。足尾らしきところに向かう道中の描写に出てくる唯一の地名は「板橋街道のような」の表記だけ。そして、「銅山」の注解に「この小説の舞台になったのは足尾銅山」とはあるが、漱石自身が記したものではない。
 この小説、かなり前に岩波文庫で読んだことはあるが、たいした印象は残っていなかった。あらすじだけは覚えていた。
 先日、新潮文庫で改めて読み直してみた。そしてようやく自分のレベルで深読みすることができた。こんなことは往々にしてある。『罪と罰』を岩波で読むと苦痛を伴って、さっぱり内容がわからないが、新潮だとストーリーの展開がスムーズに理解できる。岩波は、やはり自分にはアカデミック過ぎて難解で胃が痛くなる。翻訳の堅苦しさ、文章のレイアウト、注解の多さもあるのだろう。

 それはさておき、実はタイトルの「坑夫」という言葉に違和感があった。何で「鉱夫」ではなく「坑夫」なのだろうと。「坑夫」では鉱山というよりも炭鉱系の言葉に感じてしまう。
 余談だが、自分の父は東京生まれの東京育ちだった。戦争から復員すると、片親の母(自分には祖母)は実家のある秋田に疎開していた。下町の空襲でパーマ屋を営んでいた家が焼け落ちたのではしょうがない。父は秋田に向かい、そこにあった企業の阿仁鉱山に勤めた。鉱山の直接雇用職員、つまりは、「鉱員」、「鉱夫」の身分なのだが、何回か試験を受けて晴れて阿仁鉱山ではなく古河鉱業の正社員になった。正社員になったからといっても、穴の中の勤務に変わりはなかった。だが、社員になった以上は転勤もある。阿仁から院内、足尾、小山、さらに終わらずに阿仁、小山へと舞い戻った。小山だけは穴から外に出ていた。
 父は永年の穴の中の仕事で軽い珪肺に冒されていた。鉱山、炭鉱労働者に珪肺はつきものだ。咳き込みながら亡くなった。ついこんなことをわざわざ記したのは、自分の事故日が父の命日と重なっていたからだ。
 話が横道に逸れ過ぎた。こんなことから、自分にとっての鉱山の雇人は「坑夫」ではなく「鉱夫」というのが認識だ。「坑夫」は炭鉱労働者だと。だが、「坑道」という言葉は炭鉱でも鉱山でも同じく「掘削地に向かう穴道」のこと。そういう意味では「坑夫」=「鉱夫」なのだろう。岩波で読んだのはまだ若い頃で、そんな区別なしの言葉づかいにちょっとした反発を覚えて読んだものだから、中身をよく理解しようとしなかったといった面があったのかもしれない。とにかく当時はタイトルが気に入らなかった。

 これも余談。家には父のカンテラがあり、中には白い粉の塊が入っていて、これに水をかけるとガスが出た。つまり<CaC2+2H2O → C2H2+Ca(OH)2>でアセチレンということなのだが、子供の頃にはよくこれで火遊びをした。今でも、このカーバイトの臭いをたまに嗅ぐと、よく父に連れられて入った坑道の中の臭いを思い出す。自分には懐かしい、ひんやりとした鉱山の臭いだ。不思議にこの化学反応式は、文系の頭にもいまだに残っている。

 『坑夫』そのもののストーリーは単純だ。ひ弱で甘っちょろいタイプの青年が、今にしてはたいしたことでもなさそうな男女関係の気分的なもつれから自棄になって当てもなく東京を飛び出し、道中で出会った手配師に鉱山に連れて行かれ、なすがままに鉱山の穴に入ってはみたものの、自分には苦痛で華厳の滝で自殺した方がましと思いながら、本音のところでは死にたくもない。いざ坑夫になろうと診察を受ければ肺病があって坑夫になれず、事務賄いをすることになるといったもので、こういった青年だからこそ、青年の心理描写に期待するものはないが、坑道の事細かな描写には驚いた。
 当然のことながら、漱石は足尾で取材し、関係者にもいろいろと話を聞いたのかと思っていたら、文庫本の裏表紙には「漱石宅に押しかけてきた青年の告白をもとに綴る衝撃の異色作」とだけ記されていて、末文の三好某氏の解説にすら取材のことはおろか、足尾銅山が舞台云々のことは記されていない。漱石は足尾には行かずにこれを聞きかじりで書き上げたわけだ。それにしても、坑道の描写は微に入り細に入りだった。ことに、真っ暗な竪坑の階段の昇り降りの表現は体験した者でなければ記せないだろう。何とも不思議だった。

 この小説が書かれたのは1908年(明治41年)。興味本位で調べてみると、この頃の足尾町の人口は35,000人近くで歴代のピークを迎えている(大正5年に38,428人という数値もある)。古河は三代目になっていて、すでに財閥になっている。原敬を役員に迎え、大正デモクラシーの風潮も近づき、当局も社会運動に目を光らせている時世だ。すでに地元の松木村、久蔵村、仁田元村は廃村になり、渡良瀬川下流地域では鉱毒被害も顕著になってきていて、田中正造が明治天皇に惨事を直訴しようとしたのはその7年前だ。
 小説は新聞連載だったらしい。足尾銅山とは書けない漱石の立場もあったのではなかろうか。まして、その頃は、中国やら朝鮮から大量の強制労働者が全国の坑道の中で働いてもいる。
 後年の『坊ちゃん』や『猫』に比べたらまだまだ未熟な小説かもしれないが、『坑夫』もまた新潮文庫で読む限りはあっという間に読んで楽しめた。さりとて、これをお薦めするわけではない。ヒマなら読んでみたらとも記せない。その筋に興味がなければ面白くもなんともない退屈な小説だろう。

 まぁこんなところで読書感想文は終わりだが、つまるところ、『坑夫』を読んでも何ら滝の名称の由来に近づくことはできなかっただけのことで、小説にそれを見いだそうとしたこと自体に無理があった。
 悲話にこだわっていてもしょうがない話だが、この悲話、いずれはどんなものだったのか真相を知りたい。果たして知ることができるだろうか…。
 不思議に思う。庚申山荘に向かう、水ノ面沢ルート沿いには看板の置かれた名所がいくつかある。猿田彦神社跡、大忍坊碑、鏡岩等々。それぞれに解説板も置かれている。鏡岩に至っては、「孝子別れの場」という悲話が解説されている。だったら、何で「坑夫滝」の看板は「悲話を秘めた」だけで終わっているのだろう。
 やはり、坑夫滝には、あまり伝えたくない、知られたくない銅山の歴史の暗部というか恥部があるからではないだろうか。強制連行による慰霊碑が置かれているのに、今さら隠すこともなく公に記せばよいのになぁと思うのだが。

 読み返すと支離滅裂な文章だが雑記ということで出すことにする。どうせ、山行記事は当分の間はアップできないし、その間の穴埋めくらいにはなるだろう。

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20 コメント

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Unknown (瀑泉)
2018-09-01 00:24:10
坑夫滝の悲話は,娘さんの身投げだと昔何かで読んだ記憶がありましたヨ。ナルホド,一説には重労働に倒れた大陸や半島の人が生きながらにして・・・という話もあるんですネ。
まぁ,娘さんがの身投げ話は,すぐ思い付くダケでも,安の滝,銚子ヶ滝,仙ヶ滝,おみかの滝なんてのがあるケド,ちなみにおみかの滝は,身投げでは無く,突き落とされたようですが。
それと,滝壺に竜神やら大イワナ,ウナギやカニが住んでいるというのもあるし,中には吹割の滝のように,竜宮城へつながっているという伝説もあります。
ただどうも,坑夫滝の悲話は,伝説ではなく,実話の類のようですネ。
それはさておき,以前,越床峠のトンネル探索の記事を読んで,よく薄気味悪いトンネルに入れるなぁ~と感心しておりましたが,ソウでしたか幼少の頃からお父様に連れられて坑道の中に入っていたのですか,納得いたしました。
確かに,右足で無かったのが不幸中の幸いでしたネ。
まぁ,不自由でしょうが,しばらく辛抱して下さい。
ちなみに,昔,初音滝を見に行った際,右脹脛が肉離れを起こして,どうにか沢から脱出したのですが,帰りのマニュアル車の運転は,骨折でなくても地獄でした。
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Unknown (候酔)
2018-09-01 02:45:43
こんばんは
足の具合はいかがでしょうか
急いては事を為損じるそうですから
気長に養生なされますよう

奇遇な話ではありますが
私の生みの母親の命日も8月19日です
母はミョウガの味噌汁が好きでした
毎年この日は畑からミョウガを採って
縦に刻んで味噌汁を作ります
38歳で対岸へ渡って行きました

私も度々加護を意識しますね

有り難い事です
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瀑泉さん (たそがれオヤジ)
2018-09-01 08:19:41
瀑泉さん、おはようございます。
こんな雑文ブログまでお読みいただきおそれいります。
しかし、瀑泉さんも、こういう滝の名称の由来にお詳しいですね。ただ、見事な滝を見るというだけではなく、そんな逸話も頭の中に入っている。私には坑夫滝のことだけで精一杯な話です。これからの滝見行にもそんな話を盛り込んでくださいよ。しかし、瀑泉さんの挙げた滝、半分しか知らないのも情けないことです(笑)。
坑道の件ですが、自分が幼少の頃、父が3時上がりの勤務形態が多く、一休みした後に散歩がてらにカンテラ持って連れて行ってもらい、かなり奥まで入り、引き返しては、鉱山の風呂に入るといったことがよくやっていて、煤けた顔をした鉱員さんたち(ほとんどが顔見知り)がどさどさと風呂入って来ては、いろんな話を子供心に聞く。そんな機会がよくありました。
足尾では通洞抗に一回だけ入ったことがあります。今の観光センターの体験版のさらに奥まで入りましたね。ここの風呂は意外に小さかったことを覚えています。
そんなことから、川口浩の探検隊ほどではありませんが、洞窟の中に入るのにあまりためらいはありません。ただ、坑道の場合、その先で働いている人たちがいるといった安心感がありますけどね。

つくづく、オートマの車は便利だと思います。マニュアルの車では想像するに難くなく地獄でしょうね。よく運転されましたねぇ。今。瀑泉さんの初音滝記事を拝見しましたが、奥さんが同行されたのでしょ。何でまたケガ人に運転させたのか、そちらの方が気になってしまいましたよ(笑)。
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侯酔さん (たそがれオヤジ)
2018-09-01 08:20:21
侯酔さん、おはようございます。
引き続きのコメント、ありがとうございます。
足の具合は、昨日、手術口の抜糸が終わり、来週から風呂に入れるようなことを言われましたが、このギプスと包帯グルグル足でどうやって風呂に入るんだろうといぶかしんでいるところです。シャワーなら、片足をビニール袋に包んで毎日浴びているんですけどね。
侯酔さんのお母さんは、随分とお若くしてお亡くなりになったのですね。私の父のように寿命とは違いますから、私なんかの親に対する思いとは雲泥の差でしょう。
そうですか。19日ですか。今年もミョウガの味噌汁でしたでしょうね。人様のことながら、ちょっとため息が出てしまうお話です。
加護の意識。お母さんが助けてくれたんだろうな…。私もこれまでそんなことを意識したことはありませんでしたが、どうしても、父の命日の事故で、さらに助かった。となると、どうも偶然とも思えなくなる。まさか、これからもあの世の人頼みというわけにもいかないし、本当に慎重に行動しなければなと思っています。
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小渕沢 (みー猫)
2018-09-01 19:21:02
こんばんわ。
屈強なたそがれさんのことですから筋力ダウンも心配なさそうで、抜糸が済んだなら紅葉は厳しくとも霧氷には間に合いそうですね。家族や社会の方のケアがどうなのか気になりますがそれは後日にでもこっそり教えてください・・・滝への訪問は以前より興味深く感じていますが、正直なところ、あまり調べてないので文学との関係までは思い至ってませんでした(笑)・・・と言ってられるのも御無事だったからで、守護があったのでしょう。自分の場合、両親はまだ健在ですので、自分にあるとすれば、じいちゃんばあちゃんの加護ということになりそうですが、両親と生活圏が離れておりますので会いに行っておこうと思いました。この記事もしかして、坑夫滝に行くときに書くことを今回出しちゃったのでないか、書くこと無くなるんじゃないかもと思いましたが・・・その場に行ってみれば、もしかして何かあるのかも知れないですすね。
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足の具合どうですか。 (秋田のJUN)
2018-09-01 20:39:35
こんばんは。8/19は、お父様の命日だったのですね。山歩きした日が悪かったですね。大変ですね、2階まであがるの。足踏み外さないで下さいね。一日も早い回復を願っております。
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みー猫さん (たそがれオヤジ)
2018-09-02 07:05:29
みー猫さん、おはようございます。
図星ですねぇ。今回の記事は、坑夫滝に行き、見たら、こういうことを書こうとメモしていたことをまとめ、それにダラダラと文章をつなげてアップしたものです。みー猫さんにはすっかり見透かされていたようで。
間近に坑夫滝を見たら、それはそれで新たな感慨も出てくるでしょぅから、その時のネタは別方面からでも記しますからご心配なく。
こう退屈な日々を送っていると、みー猫さんの「紅葉は厳しくとも」というお言葉が嫌味っぽくも感じますよ(笑)。霧氷はたいして興味はないし、やはり、絶景の紅葉だけは見に行きたいものだと焦りにも似た気持ちになってしまいます。でも、吾妻山や金山の紅葉を見てもねぇ。
亡き親の加護云々というのは取って付けたもので、父が死に直面している時に、それなりに自分もしょっちゅう見舞いやら世話をしていましたからそう感じることで、みー猫さんのように遠く離れ、たまに顔見せくらいでは、あまりそういうことは感じないかもしれませんよ。
ところで、タイトルの「小淵沢」というのは何です? また、自分には目の毒になりそうな、八ヶ岳方面にでもいらしているのでしょうか。立山・劔ですら、失礼ながらさらっと読ませていただいて終わりにさせていただきました。どうも傷口がうずきそうな感じがしましてね。
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JUN君 (たそがれオヤジ)
2018-09-02 07:06:02
JUN君、こんにちは。
君が思っているほどに厳しい生活を送っているわけでもありませんからご心配なく。
この生活にも次第に慣れてきていますから。
命日に山歩き。父が山好きだったら、供養にもなったでしょうが、命日であること自体忘れていた。まして、君には失礼ながら、山好きどころか山間部での生活が長く、山好きなんて感覚はない。まぁ、自分でも何を言っているのかわけもわからなくなっているのですが、命日と重なっていた。それで死なずに済んだと思うようにしている。そんなこじつけですわね。
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お大事に (KIITI)
2018-09-02 09:41:02
たそがれさんが、高校の同級生ということを聞いて早々に検索し、ブログを読んでみました。
まずは、遭難騒ぎにびっくり、助かって良かったですね。
私は、今は田舎(わた渓沿線)に戻って、毎日が日曜日の生活をしています。
機会があればお会いしたいですね。
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小渕沢は間違いです (みー猫)
2018-09-02 15:57:46
こんばんわ。
なぜ入力されたのか??です。たぶん源流旅人さんの記事から検索掛けたのが張り付いたようです。ハヶ岳には行きたいところはありますが、来年かなと思ってますのでご安心ください。素直に紅葉に間に合わせてくださいと言えば良かったですね。さらに坑夫滝にご一緒したいという方も居ますので、言われの確認も含め楽しみにしております。2度もコメいれちゃってすみません(返事無用です)
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