コロナをきっかけに、
もともと、メールやラインが面倒だと言う友人が、
ラインのビデオ通話で、電話を掛けるようになった。
おはようございます。
私は、文字のやり取りの方が心地よい距離感だと感じるのだが、
友人は直接話したいし、さらに顔を見ながらなら、なお良いと感じるらしい。
皆さんは、ラインのビデオ通話の面白い機能をご存じですか?
なんかね、映ってる自分を加工できる機能があるんだ。
動いていたって、ちゃんと加工機能も付いてくるんだ。
イメージで言うと・・・チコちゃんの顔の表情。
あの番組の技術さん、チコちゃんの表情を加工するのに、
ライン使ったら、楽なのにっと思うほど、
素晴らしいクオリティだ。
その加工した画像でビデオ通話するのが、
その友人との決まりとなっている訳だが・・・・
そんな友人と、ビデオ通話でちょっと真面目な話もする訳だ。
「首に変なコブを付けたツバメを見たの。
きっと病気か、怪我か、したんだろうね」
「そっか・・・捕まえて治すって訳にはいかんよね」
「そうね、きっと死んでしまうんだろうね」
先日、ケリ(鳥)の棲み処だった原っぱに、重機が入っていた。
あそこも、開発されるのだろう。
マンションの前を通る川の川岸も、いつしか防草シートで覆われていた。
あそこにも、様々な生き物が生きていたのに。
川を覗き込んでみると、小さな黒い塊が見えた。
生き物だろうが、死んでいることは分かった。
その夜、川の近辺で、ハクビシンが激しく鳴く声を聞いた。
もしかすると、川に落ちた我が子を呼んでいたのかもしれない。
ツバメは、きっと静かに死んでいく。
自分の生涯に意味を見出す時間など、無駄でしかないと知っているのだろうし、
ケリは、また別の場所に棲み処を探す。
失った棲み処に執着する事など、何の役にも立たないと知っているだろうし、
ハクビシンは、もう我が子を呼んだりはしない。
いつまでも立ち止まっていては、生きていけないと知っているのだろう。
必死で生きているからだ。
人間は、他の生き物ほど、必死に生きる必要がない。
社会という安全にみえるオブラートの中にいて、
そこからはみ出さぬよう、互いを探り合いながら、
仮面を被って生きている。
その仮面が、いかに個性的かを競い、
勝ち組か負け組か、そんなゲームを繰り返している。
そんなゲームを繰り返す余裕を与えられているのだ。
私も、そうだ。
仮面の奥から見える地球は、
厳しくて静かで、切なくて美しい。
自分も仮面を脱ぎ捨てて、必死に生きてみたいと夢を見る。
そんなことは出来はしないと知っているからだ。
そんなことをしたら、守りたいものが守れなくなるからだ。
時々、少しの間、仮面を外し、
大きく息を吸って、己の真実を吐く。
そんなことを、何度も繰り返しながら、
私は、さらに入念に仮面を被り直して、オブラートの距離感を測る。
人間には人間にしか出来ない事だってあるんだっと言い聞かせ、
家の中で寝ている猫達を見まわしてから、また社会へ飛び込んでいく。
と、そんな話をしている時くらい、
この仮面的な加工、取ってもいいかしら?
取ってもいいのかしら?
さて、我が家の猫達は、「うんちゃんのお顔」を
競い合ってるのか?
うんこ「ちょっと、たれちゃん?うんちゃんのお顔に乗らないで」
うんこ「あらら、モコモコまで来たわ」
うんこ「ちょちょちょちょ!うんちゃんのシャッターチャンスが」
うんこ「まったくもう。無駄にゴージャスな男子達ったら!」
うんこ「うんちゃんのゴージャスボディが霞むじゃないのぉ!」
って、おい、おたま!
お前は、まだ入り方のコツを掴めてないのかい?
あやなんて、とっくに
あや「あやのお顔にしよっかしら~?」
ものにしているぞ!