1970年7月7日に:
思い起こせば、今を遡ること47年前の今日、私は生まれて初めて外国に出張した記念すべき日だった、イヤ初めて国外に出た日だったと言うべきか。それは、未だ日本の会社にお世話になっていた頃のことで、会社の方針で東南アジアの何処かに海外事務所を設けて世界市場に飛躍しようとの壮大な企画が立てられたからだった。その事務所設営の場所は何処が良いかと調査するのかが、私に与えられた重大な課題だった。
私はそれまでに海外出張は言うに及ばず、飛行機に乗ったことが2回しかなかったほどほどの田舎者だった。偶々そういうことになった出発地である大阪の伊丹空港では、一緒に出掛けることになった貿易担当の大阪支店長代理の前で緊張を隠すのに必死となっていた。その旅行の予定では、先ず台湾に入り、そこからフィリピン、シンガポールから香港と回って市場調査をするようになっていた。
当時の事情を知らない方の為に申し上げておけば、初めて海外に出る者のパスポートの有効期限は1度だけで、いきなり数次の旅券は交付されなかったのだ。しかも為替が$1=¥360の固定だった為に、持ち出せる外貨は$500に制限され、その持ち出し額をパスポートに銀行で記載して貰うようになっていた。
誰が考えても、$500の所持金で上記の旅行が出来る訳はなく、海外専用のクレジットカードを別に申請して交付して貰って持参して、ホテル等で支払いをしていたのだった。その際の各国へのヴィザの申請などは旅行社任せだったので苦労はなかったが、今思えば海外に出て行くことはとても面倒で緊張を強いられるような頃のことだった。
未だに覚えていることは台北の松山空港に降りたって入国手続きを終え、税関の所まで到達した時には恐ろしさで膝の震えが止まらなかった。何ら不正な物を持ち込むのではなくても、税関吏がが私のスーツケースを持ち上げて振って見せた時には過度の緊張で倒れそうだった。しかし、当然のことながら無事に通過した際に、同行の旅慣れた支店長代理に「何という顔をしているんじゃ」と笑われたものだった。
台湾では会う人たちが皆「日本統治時代」を懐かしがる年齢層の方ばかりで、英語の必要もなくのんびりと初めての「海外出張」を楽しめたのだった。だが、15日にマニラに入ると事情は一変した。我々を出迎えてくれた現地の取引先の社長の息子さんは何と入管の直ぐ後の所まで入っていたのに「何という国か」と驚かされたのだった。更に宿泊先のインターコンチネンタル・ホテルでは、至る所に自動小銃を持ったガードマン(兵士?)が立っており、外国に来たという感じを十分に味合わせてくれたのだった。
フィリピンでは英語が公用語になっているだけのことはあって、我々の取引先の方々はフィリピン人であれ華僑であれ皆フィリピン訛り(スペイン語訛りとでも言うか)はあっても綺麗な英語を話すので、意思の疎通には何ら問題はなかった。寧ろ、彼らは非常に洗練されたアメリカ風の礼儀作法で接してくるので、台湾との文化の違いを感じたのだった。
フィリピンでは印象的だった言わば個人的な出来事があった。それは華僑系のビジネスマンが私のホテルの部屋に入ってきた時のことだった。私が偶々ダイナースクラブのカード入れをテーブルの上に置いていたのだが、彼はそれを見るなり「貴方はダイナースクラブの会員だったのですか。お見それして失礼しました」と言ったのだった。そしてそれ以降は明らかに私を目上の人として鄭重な姿勢で接してくるようになった。
ダイナースクラブの会員というかカードに権威があることは承知していたが、私の会社はダイナースクラブを主宰する富士銀行(当時)の系列であり、そのお陰で私たち下々の者まで「法人の記名会員」にさせて頂いていただけのこと。私個人に資産があった訳でも、銀行に巨額の預金があったのでなかった。だが、この一件で「ダイナースクラブ」のご威光を知り得たので、そこから先の諸国でも大いに有効に活用できたのだった。
という具合で回顧すれば限りがないが、こういう調子で初めての外国出張を経験したのだった。何処の国に会社として最初の海外事務所を設けたのかとお尋ねか。それは何時の日にか、機会があれば回顧する予定にさせて頂きたい 。
思い起こせば、今を遡ること47年前の今日、私は生まれて初めて外国に出張した記念すべき日だった、イヤ初めて国外に出た日だったと言うべきか。それは、未だ日本の会社にお世話になっていた頃のことで、会社の方針で東南アジアの何処かに海外事務所を設けて世界市場に飛躍しようとの壮大な企画が立てられたからだった。その事務所設営の場所は何処が良いかと調査するのかが、私に与えられた重大な課題だった。
私はそれまでに海外出張は言うに及ばず、飛行機に乗ったことが2回しかなかったほどほどの田舎者だった。偶々そういうことになった出発地である大阪の伊丹空港では、一緒に出掛けることになった貿易担当の大阪支店長代理の前で緊張を隠すのに必死となっていた。その旅行の予定では、先ず台湾に入り、そこからフィリピン、シンガポールから香港と回って市場調査をするようになっていた。
当時の事情を知らない方の為に申し上げておけば、初めて海外に出る者のパスポートの有効期限は1度だけで、いきなり数次の旅券は交付されなかったのだ。しかも為替が$1=¥360の固定だった為に、持ち出せる外貨は$500に制限され、その持ち出し額をパスポートに銀行で記載して貰うようになっていた。
誰が考えても、$500の所持金で上記の旅行が出来る訳はなく、海外専用のクレジットカードを別に申請して交付して貰って持参して、ホテル等で支払いをしていたのだった。その際の各国へのヴィザの申請などは旅行社任せだったので苦労はなかったが、今思えば海外に出て行くことはとても面倒で緊張を強いられるような頃のことだった。
未だに覚えていることは台北の松山空港に降りたって入国手続きを終え、税関の所まで到達した時には恐ろしさで膝の震えが止まらなかった。何ら不正な物を持ち込むのではなくても、税関吏がが私のスーツケースを持ち上げて振って見せた時には過度の緊張で倒れそうだった。しかし、当然のことながら無事に通過した際に、同行の旅慣れた支店長代理に「何という顔をしているんじゃ」と笑われたものだった。
台湾では会う人たちが皆「日本統治時代」を懐かしがる年齢層の方ばかりで、英語の必要もなくのんびりと初めての「海外出張」を楽しめたのだった。だが、15日にマニラに入ると事情は一変した。我々を出迎えてくれた現地の取引先の社長の息子さんは何と入管の直ぐ後の所まで入っていたのに「何という国か」と驚かされたのだった。更に宿泊先のインターコンチネンタル・ホテルでは、至る所に自動小銃を持ったガードマン(兵士?)が立っており、外国に来たという感じを十分に味合わせてくれたのだった。
フィリピンでは英語が公用語になっているだけのことはあって、我々の取引先の方々はフィリピン人であれ華僑であれ皆フィリピン訛り(スペイン語訛りとでも言うか)はあっても綺麗な英語を話すので、意思の疎通には何ら問題はなかった。寧ろ、彼らは非常に洗練されたアメリカ風の礼儀作法で接してくるので、台湾との文化の違いを感じたのだった。
フィリピンでは印象的だった言わば個人的な出来事があった。それは華僑系のビジネスマンが私のホテルの部屋に入ってきた時のことだった。私が偶々ダイナースクラブのカード入れをテーブルの上に置いていたのだが、彼はそれを見るなり「貴方はダイナースクラブの会員だったのですか。お見それして失礼しました」と言ったのだった。そしてそれ以降は明らかに私を目上の人として鄭重な姿勢で接してくるようになった。
ダイナースクラブの会員というかカードに権威があることは承知していたが、私の会社はダイナースクラブを主宰する富士銀行(当時)の系列であり、そのお陰で私たち下々の者まで「法人の記名会員」にさせて頂いていただけのこと。私個人に資産があった訳でも、銀行に巨額の預金があったのでなかった。だが、この一件で「ダイナースクラブ」のご威光を知り得たので、そこから先の諸国でも大いに有効に活用できたのだった。
という具合で回顧すれば限りがないが、こういう調子で初めての外国出張を経験したのだった。何処の国に会社として最初の海外事務所を設けたのかとお尋ねか。それは何時の日にか、機会があれば回顧する予定にさせて頂きたい 。