新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月9日 その2 通じる英語と通じない英語

2017-07-09 14:24:30 | コラム
どうしたら解って貰えるか:

私からお聞きになった方もおられるだろうと思うが、私は「遺憾ながら、我が国の学校教育の英語で育った方が、所謂ペラペラになるほど自由自在に英語が(または英語で)話せるようになったら奇跡だ」と言って「科学としての英語」を批判してきた。それに、我が国では「英語が外国人に通じたか通じなかったかで一喜一憂される方が多い」とも承知している。

また、20年以上も「通訳も出来る交渉ごとのアメリカ側の当事者」として何百回、何千回と通訳もしてきた。だが、「中には自信があるから通訳は要らない」と自分で交渉されるか、アメリカ人との会話を楽しまれた方にも出会ったものだった。だが、何度かは後で「あの方が何を言われたかったかが解らず、何とか相槌は打ってきたが苦労したぜ」と、上司等に打ち明けられたこともあった。

こういう場合以外にも発音もある程度は正確で語彙も豊富で、学校でどれほど英語という科目で好成績を収めてこられたかが解るような立派な英語で交渉されるか、世間話をされる方もおられた。但し、こういう学校英語の秀才の場合には、ややもすると「あの人は流暢に語られたが、どうも何を主張されたいのかがもう一つピンとこなかった」と嘆かれることも間々あったのだった。

また、他の話ではこれまでに何度か例に挙げてきた一聴ペラペラ風で、“You know, I take vacation and take my family to Europe (実際には「ヨーロッパ」と言っておられた)long day, you know, when my sons are small. But nowadays, my sons become big and go to school, you know, we can’t go long time. So, my wife become unhappy and complain.”実際に我が同胞がペラペラ風で自信たっぷりに外国人と「会話」をしておられたのを地下鉄の中で聞いて、困った英語の例として採り上げたことがあった。ご記憶の方があれば幸せだが。

このペラペラ風では十分に通じていた様子だった。だが、お気づきの方があると思うが文法的には間違いだらけだし、既に「貴方が有能であることを証明しない」と指摘した“you know”が多用されている。「それじゃ駄目じゃん」と言いたくもなるだろうが、立派に通用していたのもまた事実だった。結論から言えば「これは知的階層に受け入れられる英語ではない」のは明らかで、絶対にお薦めしない種類だ。

即ち、キチンと文法を守って、“you know”などを挟まずに「慣用句」や「口語的表現も適宜織り交ぜて、小難しい文語体の言葉を使わずに、「自分の思うところを表現できる」ような(“I know how to express myself in English.”のように言うが)となるように勉強しようということだ。

ここまでは、こちらから自分が言いたいことというか、自分の意思を思うように表現出来るようにしようと強調して解説してきた。だが、日常会話でも緊張を強いられる国際的な交渉ごとの場でも、相手側の言うことを正しく理解できるだけの英語力を身につけておく必要がある。私の経験では彼らが使う英語の細かい点までを誤解することなく聞き取り且つ理解する為には、我が国の学校教育の英語では間に合わない出苦労されている方が多かったと思っている。

それは「彼らは交渉の席に着く以上、自分たちが日常的に使う表現についてきておられるとの前提で話してくるし、議論が白熱したような場合には到底ついてはいけないような早口になってしまう場合もあるのだ。しかも、日常的な表現という意味は”idiomatic expressions“(慣用句)や“colloquialism“(=口語体)や耳慣れない“technical terms”も数多く登場してくるものだ。これらには不慣れであると直ちには理解できない話が多くなると思う。

話なここまでに止まらず、既に取り上げたような文化の違いと、彼らの思考体系の特徴である「二進法」が入ってくるのだから、相互に理解不能となってしまうことも大いにあり得るのだ。まして、アメリカ側が興奮の余りに“slang”(=俗語)などを使い出せば混乱に拍車がかかることだってある。

そこで、ここでは不慣れだと最も厄介である「慣用句」だけを取り敢えず解説してご参考に供したい。一寸長くなるがご辛抱を。

Idiomatic expressionsとは:
「慣用語句」と訳されている。実際にこれを読んだり、聞かされたりしても直ちに「今、“idiom”が出てきた」と感じるようなものではないと思う。Oxfordには“A group of words whose meaning is different from the meanings of individual words”とあり、Websterには“An expression that cannot be understood from the meanings of its words but must be learned as a whole”となっている。即ち、慣用語句の中の言葉一つ一つの見当がつくか意味が解っても、全体の意味は把握できないということだ。だから単語だけではなく流れの中で把握せよ」と主張するのである。例を挙げておこう、

He gave in.=「彼は屈服した」
He burnt his bridge (boat).=「彼は退路を断った」
He saw the handwriting on the wall.=「悪い兆候が見えた」、「悪いお知らせだった」
I was between the devil and the deep blue sea.=「進退窮まったり」
Let’s get the show on the road.=「さー、仕事を始めよう」、「さー。出掛けようぜ」
It’s a piece of cake.=「朝飯前だ」なのだが、“cinch”も“It was a cinch.”の様に使われている。ジーニアスは“No sweat!”も例に挙げている。
How come you put up with such a bad treatment against you? では“put up with”は「我慢する」か「耐える」の意味である。
Please be my guest.またはI will be the host.=「私がご馳走します。乃至は「私がおごります」
I will take a rain check.=口語体の例文にしても良いのだが「今回は遠慮して次の機会にご招待を受けます」


等々があるが、余り上手い例文ではないのが一寸残念だ。兎に角、彼らと語り合っていれば、このような表現に加えて“I’ll buy you a drink.“のような口語体もあれば、時によっては俗語も出てくると思っている方が無難だ。ここであらためて言いたいことは「単語をバラバラに覚えておくのではなく、このように一つの流れの中でその使い方を覚えるようにしよう」なのである。


国際人って何

2017-07-09 08:26:19 | コラム
汝国際人たれ?:

自慢話ではないとお断りした上で言うが、私は在職中に光栄にも何度か「国際人」と呼ばれたことがあった。だが、正直なところ国際人とは何のことかを把握しておらず、それが褒めて頂いたことになるのかなと思う程度だった。未だに何のことか十分に理解していないが、広辞苑には「広く世界的に活躍している人」とあるので、それならば自分には当てはまらないと思っている。

そこに、7日夜のPrime Newsで西部邁氏が国際人とは「英語が出来て、アメリカのことを知っている程度のこと」と決して評価されてはいない口調で言っておられたので、それに触発されてあらためて広辞苑の定義からすれば国際人ではない私が、国際人論を展開してみようかと思うに到った。

何も今になって始まったことではないが、我が国には「英語を良く学んで国際的に活躍できるようになろう」であるとか「国際人を広く養成する為に小学校から英語を学ばせよう」などという愚にも付かない理想論の如き言辞や、脅迫にも等しい「英語を勉強しよう」という思想が蔓延していると思う。

私は「万人が英語を深く勉強する必要もなければ、強制するのは良いこととは言えない」と主張してきた。だが、「ある程度まで英語を勉強することには意義はあるし、害毒はない」とは思っている。しかし、「英語を良く勉強すれば国際人になれる」というのは誤りであると断言する。そういう背景には、我が国の学校教育における英語の教え方に問題があると信じているからだ。

これは長年主張してきたことで「我が国で教えられているのは『科学としての英語』であって、Englishではない」という意味だ。後難を恐れずに言えば「TOEICなどに執着しているようでは何時まで経ってもEnglishを正しく解るようにはなれないだろう」ということである。ましてや、英語を母国語とする人たちを相手にして、心ゆくまで「会話」を楽しめる次元に達し得るのかと言いたいのだ。

この辺りは「私の英語勉強法」で何度も述べてきたので詳細は省くが、我が国の学校教育で英語を数学のように学んで、学ばせられて、思うがままに英語で自分の意思を表現できるようになれた人がどれほどおられるのかということでもある。私は余り出会っていなかった。

何となく「国際人とは何か」から議論が離れていったようだが、私は主張したいことは「ただ単に英語が話せるようになっただけでは、真の意味での外国人との意思の疎通は言うに及ばず、彼らの懐の中に入って、彼らの思考体系を読み切って議論し、交渉し、文化と文明論を交わす為には不十分だ」ということなのである。この点については、以前に、英語の理解力がある程度以上の次元に達した者たちには「日米間の文化と思考体系の違いを教えるべし」と主張してきた。

これも長年の主張であるが、相互の文化と思考体系の違いを弁えていないと、相手を確実に説得できるような論旨が展開できなくなるし、相手側の言い分の背景に何があるのか、何故彼らはそういう一聴不合理と思いたくなる議論を真っ向から展開するかが解らなくなってしまうのである。これはTOEICやTOEFL等で何点取ったかという問題ではないのだ。勿論、相手側も我が国の文化と思考体系を弁えて言っているのではないという場合は多いと思っていて良いだろう。

そこで、ここでは取り急ぎ私が1990年4月に本社の事業部で行った「日米企業社会における文化の違い」と題したプリゼンテーションの簡単な抜粋を長くならぬように展開しておこう。確認だが「簡単に」である。現実には90分も要していた。

*逆さの文化(Reversed culture):
姓名では我が国では名字が先で、欧米では名前(=last name)が先である。住所表示は我が国では大きい方から入り東京都中央区銀座1-1-1となる。アメリカではSeattle, Washington, USAとなっていく。交通では我が国が左側でアメリカは右側という具合。アメリカでは家の中でも靴を履いたままだが、我が国は脱ぐ等々である。

*教育:
我が国では学校で教えられたことを第一に勉強する言わば受動型だが、アメリカ式は自分で自分の範囲を積極的に広げていって漸く評価の対象になるという能動型。これはビジネスの世界でも同様で、与えられた課題だけをこなしているのではうだつが上がらない制度だ。

仕事と家庭の何れを優先するか:
これなどは微妙な違いだが、彼らの多くは猛烈に働くが何としても家族と家庭を蔑ろにしないように懸命に努力するものだ。W社で嘗ては#2だった上席副社長は猛烈な働きぶりで有名だったが「週に一日は家族の為に取っておく」と断言した。我が国では(嘗ては?)会社の為と仕事の為に家庭を顧みない仕事人間が多かったのではないのか。

思考体系の違い:
我が国では八百万の神がおられるように極めて柔軟であり、交渉ごとでは常に中を取って折り合おうとするし、妥協点を探る努力を怠らず、相手の立場を尊重し顔を立てる配慮をする。だが、彼らは二進法でしか物事を考えることしか出来ないので、常に断定的に言うし、「勝つか負けるか」、「イエスかノーか」、「白か黒か」しか考えていない。即ち、妥協や落としどころを探るようなことはしないものだ。私はそこには一神教であるキリスト教的な思考体系があるとすら思って接してきた。

性善説対性悪説:
言うまでもあるまいが、我が国は性善説を信奉する世界でも少数派の国である。

本当に大雑把に言えば大要上記なような違いがあるのだ。これらを弁えずに、ただ単に英語をペラペラと話せるだけでは、彼らとの交渉では容易に勝てない危険性があると申し上げたいのだ。しかも、彼らとても、如何に近頃は達者に日本語を操るが増えてきたとはいえ、文化を違い論などをこのような私の文化比較を聞いて直ちに全てを理解出来るまでの者は少ないのではないと思う。

それは、現実にこういう文化の違いの谷間を彷徨うか、その低いように見えて案外高い壁にぶつかって初めて解ってくるのなのだ。しかし、違いが厳然として存在するものだと承知してぶつかる方が、何も知らずに言葉が出来るからと慢心してぶつかるよりは、よほど傷は浅いと思う。その辺りが真の国際人とやらになるべく踏み出していく一歩目だろうと思うのだ。