新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月17日 その2 アメリカ合衆国大統領選挙についてのマスコミ論調に一言

2024-08-17 09:10:15 | コラム
New York Timesと産経新聞の記事に基づいて一言:

以前にも半ば告白した事で、22年以上も公用語は英語であるアメリカの会社(の日本駐在マネージャーとして)で過ごし、1年の3分の1以上はアメリカのホテルに泊まっていたのだが、ついぞNew York Timesを読む機会がなかった。

それも当然で、ウエアーハウザーはニューヨークの会社ではなかったのだから、私が地方紙と決めつけ、マスコミが近頃「有力紙」と呼ぶようになったNY Timesも、Washington Post紙とも無縁だった。


それが、有り難い事にジムのサロンに置いてあるJapan Timesの後ろにNY Timesが付いているので、この期に及んで初めて読める機会が出来たのだった。地方紙だと言ってきたが、ニューヨークのことなど殆ど取り上げていない全国紙の如きである。予てから民主党寄りと聞いていたが、確かにバイデン大統領とハリス副大統領&大統領候補に対しての論調はかなりお手柔らかで好意的だと解った。


特に、16日に産経新聞のワシントン駐在客員特派員という難しい肩書きの古森義久氏の「ハリス候補の光と影」と題したコラム「緯度経度」での論調はNYTと比較すれば、遙かにハリス副大統領には手厳しいと思って読んだ。その辺りを引用してみれば、


>引用開始

ハリス氏の政治家としての資質や政策についての疑問もまた山積している。同氏は民主党指名候補になって以降、記者会見やインタビューに再三の要望にもかかわらず応じていない。プロンプターに準備された草稿がないと意味不明の発言に走るという懸念からだとされている。(中略)さらに心配されるのはハリス氏の政策の激しい変転である。(以下略)

<引用終わる


この小森氏の指摘には、その通りかと思わせる点があると思う。私のテレビで流された音声と一寸拾い読みするだけのNYTの記事を見ての印象でも、経済政策などが明確に打ち出されてはいなかった。だが、NYTは「公表できないのではなく、政策を練っているので遠からず発表する用意が進んでいる」というような、穏やかな報じ方で「なるほど、民主党に優しいな」と解るし、トランプ氏については「ハリス氏の登場で苦戦気味」という言い方なのだ。


アメリカの大統領選挙についての報道をやれ「もしトラ」だの「ほぼトラ」だの「確トラ」などと言って取り上げるのはマスコミの勝手だ。だが、NYTの民主党寄りの論調と、アメリカの政界の事情に精通された小森氏の指摘等を比較して報道する方が正確であるし、読者にも視聴者に向かっても親切ではないのだろうか。私などは20年以上も「民主党政権は我が国にとってはbad news」と指摘し続けてきた。故安倍総理が親しかったトランプ前大統領は共和党なのである。


私は「アメリカ合衆国の大統領に何れの党の候補者が当選するか」は、間違いなく我が国にとっては超重大事項であると解っている。だが、それを、戯れ言を使って報じるのは好ましい事ではないのではと感じている。さらに言えば、我が国にとっての緊急課題と言うか問題点は来たる自由民主党の総裁選ではないのかと見ている。こちらの扱い方こそ重要だし、優先事項ではないのかなと思うのだ。


誰が出てきて緩んだ自民党の箍を締め直し、我が国を栄光の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の状態に戻してくれるかに焦点を絞って、解りやすく報道して貰いたいのだ。既に指摘した事で「誰が何処の高級店で食事をしたか」は、問題の本筋ではないと思う。それこそ、候補者として名乗り出る者たちに確たる政策と方針等を語らせて、国民に改めて間接的に信を問わせる報道をして欲しいものである。



79年前のことを回顧してみれば

2024-08-17 06:45:01 | コラム
あの頃はこういう状態だったのです:

昭和20年4月に入学した湘南中学では、1年生は毎朝国鉄(現JR)の藤沢駅前に集合して、居合わせた上級生の号令の下に二列縦隊を組んで、子供の足では20分以上を行進して学校に行く決まりになっていました。その時は必ずゲートルをキチンと巻いて途中で緩んでしまったら叱られるので、キリキリに巻けるように練習してありました。

学校は小田急線の藤沢本町駅から歩けば近いのですが、それは許されていませんでした。しかし、戦後は解禁されました。私が住んでいた家の近くの鵠沼海岸駅の次の本鵠沼駅から通学すれば行列はないので、時々その道を行きました。だが、30分以上かかるので辛かったので、偶にしか利用しませんでした。但し、警戒警報の発令で授業がなくなった時には、この道で帰りました。

昨日も取り上げたアメリカの艦載機の機銃掃射は、本当に我々子供たちも襲いました。藤沢市内で打たれて弾が膝に当たって不自由になった者が同期にいました。私は警戒警報で歩いて帰ってくる途中の家の直ぐ近所で、仲間と共に狙われて道から外れた松林に駆け込んで、何とか生命の危機から逃れました。だが、記憶では急降下してきた艦載機の操縦士の顔が見えた程、低空まで降りてきていた気がしています。言いたいことは「彼らは当時の言葉で「無差別爆撃」ならぬ「無差別機銃掃射」をしていた」という点です。

また、ある晩のこと、誰が言ったのか、「B29に高射砲の弾が当たって相模湾の方向にフラつきながら逃げている」と近所に広まったので、大勢で海岸に走りました。確かに、真っ赤な火の玉が海に落ちていくのが見えました。皆で「やった。やった」と歓声を上げたのも覚えています。

平塚が大空襲に遭った時は、何処が襲われているのかも知らずに、校庭の防空壕から立ち上がって見ていました。本当に焼夷弾が雨あられと落ちるのが見えました。非常に綺麗な絵のようで、白く太い雨が降っているように見えたのです。それが焼夷弾だとは知りませんでした。物凄い光景だったのです。この空襲で我がクラス会のボスI君は両親を失いました。だが、何と彼はその焼夷弾が降り注ぐのを見ていたのです。今にして思えば「何とも残虐で悲しいこと」でした。

先ほども某局で「戦争の悲劇を語り継げる人が少なくなって、戦争が何だったかを語り継げなくなる」などと言っていました。あの頃を経験した者としては、語り継ぎたいと考えたことなどありません。「出征兵士を送る歌」などを聞いたこともないような年齢層の人たちが、したり顔で戦争を語るのは疑問に思えます。国全体が「その方向に一致団結して進んでいったこと」が間違っていたのだから反省しよう、語り継ごうなんていうのは戯言ではありませんか。私は好ましくないと思います。あの頃は「天皇陛下のため、お国のために一丸となって突き進んでいた」と、承知していたとは思えないのです。

インバウンド様たちに親切にしてあげようなどと言っている暇があれば、靖国神社参拝を優先して貰いたいのですが。私は本殿まで入って参拝したことがあります。荘厳だったとでも言うしかない経験でした。お国のための戦争で亡くなった方たちは「英霊」でしょう。そこに参拝するのを外国に何のかん」と言われる筋合いはないでしょう。私がこんなことを言うとは意外かも知れませんが、言うべき時には言います。

筆者注:上記は23年の8月16日に発表したものです。その内容は何度でも繰り返して発表しても良いと思って採録した次第です。是非とも、あの頃を経験していない世代の方々に読んで頂きたいと願っているのです。