私は交通遺児なのだ:
昭和12年12月24日、父はその何日か前に東京は銀座の数寄屋橋交差点でタクシーのバンパーに引っかけられた為に、亡くなった。我々兄弟2人は4歳の私と2歳の弟だった。私は父が入院した病院に行ったようだし、亡くなって帰ってきたことの記憶はあった。だが、何が起こったのかは理解していなかったようだ。その後に、そのタクシーの運転手さんだったと痕で知ったが、何処か余所の人が尋ねてきて、母親が追い返したのもボンヤリと覚えていた。父が交通事故の被害で亡くなったと知ったのは、随分後になってからのことだった。
昨日からテレビも新聞も池袋で事故を起こして松永さんの母子を死に至らしめた飯塚幸三の裁判の件を繰り返して報道し、感傷的というのか感情的というのか分からないが、松永氏と親族の怒りを採り上げている。私は正直に言って、何とも複雑な思いで報道を見ている。昭和12年か13年に父の事故死が報道されたかどうかなど知る由もない。まして、マスコミの発達の度合いも現在とは大きく異なっていただろう。後になって知ったことは、母は「謝られても死んだ者が帰ってくる訳でもなし」と謝罪に来た運転手を引き取らせたそうだ。複雑な思いはこの辺りにある。
昨年、幼稚園の同窓会に生涯で2度目だが出掛けた。美智子皇后様(当時のことで、現在は上皇后様)がお見えになると知ったからだ。その時に約80年振りで戦災で失った家の隣人の兄弟の方々に出会う機会があった。その中の1人が「ほら、お隣だった」と弟さんに紹介すると「あー、覚えている。お父さんが交通事故で亡くなったあの家の」と記憶を呼び起こして下さった。当時は今よりも遙かに交通事故は少なかったはずだが、事故死の受けとめられ方は時代と共に大きく変わったのかなと思って「暫くでした」と挨拶して別れた。
昭和12年12月24日、父はその何日か前に東京は銀座の数寄屋橋交差点でタクシーのバンパーに引っかけられた為に、亡くなった。我々兄弟2人は4歳の私と2歳の弟だった。私は父が入院した病院に行ったようだし、亡くなって帰ってきたことの記憶はあった。だが、何が起こったのかは理解していなかったようだ。その後に、そのタクシーの運転手さんだったと痕で知ったが、何処か余所の人が尋ねてきて、母親が追い返したのもボンヤリと覚えていた。父が交通事故の被害で亡くなったと知ったのは、随分後になってからのことだった。
昨日からテレビも新聞も池袋で事故を起こして松永さんの母子を死に至らしめた飯塚幸三の裁判の件を繰り返して報道し、感傷的というのか感情的というのか分からないが、松永氏と親族の怒りを採り上げている。私は正直に言って、何とも複雑な思いで報道を見ている。昭和12年か13年に父の事故死が報道されたかどうかなど知る由もない。まして、マスコミの発達の度合いも現在とは大きく異なっていただろう。後になって知ったことは、母は「謝られても死んだ者が帰ってくる訳でもなし」と謝罪に来た運転手を引き取らせたそうだ。複雑な思いはこの辺りにある。
昨年、幼稚園の同窓会に生涯で2度目だが出掛けた。美智子皇后様(当時のことで、現在は上皇后様)がお見えになると知ったからだ。その時に約80年振りで戦災で失った家の隣人の兄弟の方々に出会う機会があった。その中の1人が「ほら、お隣だった」と弟さんに紹介すると「あー、覚えている。お父さんが交通事故で亡くなったあの家の」と記憶を呼び起こして下さった。当時は今よりも遙かに交通事故は少なかったはずだが、事故死の受けとめられ方は時代と共に大きく変わったのかなと思って「暫くでした」と挨拶して別れた。
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