生きることを学ぶ、終に | |
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みすず書房 |
生きることを学ぶ。
私は私自身と戦争状態にある。70原題
ユダヤ人の血を引くデリダの死に際の遺言。
0★★★★
生きること、定義上、それは<学ばれる=教われる>ものではない。ひとりでは、自分からは、生からは、生によっては。他者からだけ、そして死によってだけ、それは<学ばれる=教われる>、10
①
<生き残りの身を焼くような使命>
★ ★★生き残りとは、単に残る者のことではなく、可能な限り強烈な生のことなのですから.幸福と快楽の瞬間ほど、私が死ぬことの必然性に取り付かれることは決してありません。享楽することと、迫る死を思い悲願に暮れて泣くこと、私に取ってそれは同じことです。64
★ ★★自分の生を思い返す時、私には、自分の生の不幸な瞬間まで愛するチャンス、それらを祝福するチャンス。64
生き残りはみな、すなわち、他者より、友より、さしあたり生き残る者はみな、それ以後、その者の消滅に耐えぬくことがつとめになるという理由による。生き残りは備えている、不在を<耐える=担う>べく。11
②★★★★
生きることを学ぶことは、死ぬことを学ぶことを意味するはずでしょう。23
哲学をすること、それは死ぬことを学ぶことである。23
生き残りのエクリチュール
責任のエクリチュール
エクリチュール=書き言葉
パロール=話し言葉
②
私から「発する」たびに、私はエクリチュールにおいて、私の死を生きるのです。極限的な試練です。残されたものが誰に固有にゆだねられているのか、知らぬまま、脱自己固有化するのですから。35
③
★★★★★
脱構築:
★ ★★私が脱構築と呼ぶものは、それがヨーロッパの何者かに反対して向けられる倍井出もヨーロッパ的です。それはヨーロッパの所産であり、ラディカルな他者生の経験としてのローッパへの自己の関係です。51
★生き残りの終わりえざる倫理。62
<脱構築とは,まさにこのテキストの連鎖を自由に横断し,そのずれの中に世界の生成の瞬間を見いだそうとする,無限に反復される試み 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
★★★★★
フランスのポストモダンの哲学者デリダの用語。同じ著者のテキストのなかに、なんらかの絶対な真理を打ち立てようとする傾向と、反対に絶対な真理を解体しようとする傾向との、2つを同時に読み取っていくことをいう。(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
④★★★★★
《〈フランス〉déconstructionの訳語》西洋哲学で伝統的に用いられる統一的な全体性や二項対立の枠組みを解体し、新たな構築を試みる思考法。フランスの哲学者デリダの用語。デコンストラクション。
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私の仕事の始めから、そして、それこそまさに脱構築なのですが、私は、ヨーロッパ主義に対し、あるいは、例えば、ヴァレリー、フッサールないしハイデガーにおける、その現代的な定式化におけるヨーロッパ中心義に対し、極度に批判的であり続けてきました。46
0★★★★★
私が臨むのは、もう1つの軍事超大国としてのヨーロッパ、己の市場を防衛し、他のブロックに対して、おのれの市場を防衛し、他のブロックに対して拮抗するようなヨーロッパではなく、もう1つの世界を求める新しい政治の種をまきにくるようなヨーロッパです。このような政治だけが、私に取って、唯一可能な活路です。48
★★★★★
⇒もう1つの世界を求めるヨーロッパ、主権と国際法の、諸概念の諸実践を変革するヨーロッパです。48
<問い>
問いを提出し、再検討する可能性。59
【バタイユ エロティシズム】p167
厳密にいえば合体などないのだ。暴力の支配下にある二つの個体が、性的結合の秩序だった反射作用によって結びついて、危機の状態 ー 両者それぞれ自己の外に存在している状態 ー を共有するということなのだ。
p170-171
人間の性活動は本質的に侵犯である。それは禁止ののちに、原初の自由へ帰るということではない。 侵犯は、労働活動が組織している人類の所業なのである。侵犯それ自体も組織されているのだ。