本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

バルトからみるinstagram

2019-02-11 18:44:21 | 2019年始動。革命のスタート。
明るい部屋―写真についての覚書
クリエーター情報なし
みすず書房

バルトが写真を見て感動を共有したときに感じたこと。
「人生は、このように、小さな孤独の数々から成り立っているのだ。」7

写真の存在論:
写真とはそれ自体何であるのか、いかなる本質的特徴によって、他の映像の仲間から区別されるのか、私はこれが是が非でも知りたかった。8
⇒★★★写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、技巧、現実、ルポルタージュ、芸術等々から引き離された時である。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がってくるようにすること。67

個別的反応から出発して、それなしでは写真が存在し得ないような、写真の基本的特徴や普遍性を定式化しようと努めるであろう。15

0はじめに〜★★★★★
写真は私に及ぼす効果は、(時間や距離によって)消滅したものを復元させることではなく、私が現に見ているもの確実に存在したということを保証してくれる点にある。102

★ ★★★写真はすべて存在証明である。107
⇒明白なものは分解をすることを許さない。133

<明るい部屋>①★★★★★
写真は深く掘り下げたり、突き抜けたりすることができない。131
⇒★★★★写真が深く掘り下げられないのは、その明白さの力による。131 
⇒愛と恐れに満ちた意識に時間の原義そのものを思い起こさせるなら、写真は狂気となる。つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生じるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。146
⇒<写真の2つの道>★★★★
① 写真が写して見せる者を完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか?
② そこによみがえる手に負えない現実を正視するか。
選ぶのは自分である。146

★★★★★②写真の起源
◇写真はその技術的起源のゆえに、暗い部屋という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろ、カメラ•ルシダ(明るい部屋)といを引き合いに出すべきだろう(カメラ•ルシダというのは、写真以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことのできる装置であった)。それというのも、映像を見るまなざしの観点からすれば、こう言えるからである。すなわち、映像の本質は、内奥をもたず、完全に外部にある、という点にある。にもかかわらず、映像は、心の奥の考えよりもなおいっそう近づきがたく、神秘的である。意味作用はもたないが、しかも可能なあらゆる意味の深みを呼び寄せる。明示されていないが、しかし明白であり、セイレンたちの魅力と幻惑を生むあの現前=不在の性格をもつ。131

<写真の固有性>
★★★★唯一の存在を扱うありえない科学というユートピア85
写真の本質は、写真によってもたらされた新しさ以外のものではありえない。9
③★★★★★再現性
★写真の場合は、ある何かが、小さな穴の前でポーズを撮り、そこに永久に留まっている。96
⇒写真が数限りなく再現するのは、ただ一度しかおこらなかったことである。写真は、実際には二度と再び繰り返されないことを、機械的に繰り返す。9
⇒写真は絶対的な個であり、反響しない、ばかのような、この上もなく、偶発的なものであり、あるがままのものである。9
⇒★★★偶然の、機械の、遭遇の、現実界のあくことを知らぬ表現である。9
⇒仏教であるところの如実。
⇒快楽や感動を与える13

④★★★★★写真論
◇ 写真が対象とするもの/三つの感動/三つの志向
① 撮影者/撮ること
撮影者の本質的な行為は、ある事物または人間を不意に捉えることにあり、従って、その行為は、被写体が知らぬ間に行われる時、初めて完璧なものとなる。46
⇒★★★★観客である私にとっては、様々な不意打ち=驚きだが、写真家にとってはそれが様々な成果ということになる。44
②幻像/撮られること
③観客/眺めること

写真は、自分自身が他者として出現すること、自己同一性の意識がよじれた形で分裂することを意味するからである。21

写真は主体を客体に変えた。それも、いわば博物館にあるようなものに変えた。22

<写真の本質/写真を存在させもの•きっかけ•理由>
★ ★★この写真は私にとって存在していた。34
★ ★★★その存在(その<冒険=不意の到来>34

【写真の魅力】★★★★★④
◇ 不意打ち=驚き
①珍しさ47
②神託的身振り=絵画がよく知っているそれである。絵画はしばしばある動作を、常人の目が固定し得ないような動きの瞬間において捉え、再現している。47
③手練の早業=写真でしかとらえらえない一瞬を捉えたもの。
④写真家が技術中の曲芸に期待するそれ
ピンぼけ、魚眼レンズなど撮影者の技術的要素によるもの。48
⑤思わぬ掘り出しもの

私を写した写真を通じて狙うものは、死である。死がそうした写真のエイドス(本性)なのだ。25
⇒哲学的な死とは「一次的な死」もしくは、意味の解釈を預けられたものという意味もあると思う。

ある種の写真が私に及ぼす魅力を(とりあえず)言い表すとしたら、最も適切な語は、冒険(=不意にやって来るもの)という語であると私には思われた。ある写真は私の元に、不意にやって来るが、他の写真はそうではないのである。30
【インスタにおける写真】⑤★★★★★
⇒★★★★冒険の原理によって、私は写真を存在させることができる.それとは逆に、冒険がなければ、写真は存在しない。30
⇒サルトルは「存在として措定」という。30
⇒★★★★この荒涼たる砂漠の中で、とつぜん、ある写真が私のもとにやって来る。その写真は私を活気づけ、私はそれを活気づける。それゆえ、写真を存在せしめる魅力は、活気づけと呼ぶことにしなければならない。写真その者が活気を帯びている、ということでは決してないが、それは私を活気づける。そしてこれこそ、あらゆる冒険がもとらすところのものである。31

<punctumプンクトゥム/>
★ ★★★ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸を締め付ける)偶然なのである。39
★ ★★★私が写真に付け加える者であり、しかも既にそこにあるものである。68
⇒見る者の心を突き刺す何か。
⇒もうひとつの概念:studiumストゥディウム
あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れ。3
⇒両者は共存する。57「

<写真と演劇>
★★★★写真が芸術に近づくのは、絵画を通してではない。それが演劇を通してなのである。44
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2月10日(日)のつぶやき

2019-02-11 06:25:52 | 2016 START
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