本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

キェルケゴールからみる今の日本における宗教的なものにかわる絶対的な価値観の作り方。

2019-02-10 22:28:53 | 2019年始動。革命のスタート。
キェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ
クリエーター情報なし
講談社

〜キェルケゴールの格好の入門書。めちゃ面白い!

0★★★★★
今日テレビで絶対的な価値観のない日本で民主主義が根付いたのは、天皇と言う仕組みがあったからだといっていたでのタイムリーな一冊。
宗教に変わるものって、潜在意識とか、自分をよく知ることに繋がるんじゃないかなと思う。
それゆえ、メモの魔力が驚異的に売れていたりするんだと思う。
自分の瞬間、本質を知ることそれが、日本における、神性、あたらしい宗教に変わるものなのじゃないかと思う。

高野睦子さんにおけるロールモデル。

キェルケゴールは生きるということに悩んだ哲学者。
だからこそ、生きることに悩む人に光を照らす。

キェルケゴールにおいて、
瞬間とは、「かの人(キリスト)が存在する時を言う。すなわち、羨(ただ)しい人、瞬間の人が存在する時を言う」238

★★★★★最高のことは、それを理解することなのではなく、それを行うことなのだ。21

①★★★★★
父がデンマーク国教会の第一人者であるキェルケゴールのキリスト教信仰のあり方を巡る内容の書物。キェルケゴールのキリスト教信仰のあり方、キリスト教の信仰を巡る彼の生のドラマ。
拭い去りがたい罪の存在に直面し続け、どうしようもない罪意識に思い悩む一人の弱い男。5

本書は、キリスト教に、ひいては宗教に関わる多くの人にとって、更には、自分の中野奥深くに根を張っている罪、悪の意識期の存在に悩む多くの人にとって、確かなもの。6


<「いま」の日本における「神意」>
山折哲雄氏がサムシンググレートといったもの。
自然。
高野睦子さんがロールモデルと言ったもの。
日本においては、自分也に規範を探す、構築することが求められる。

精神:
自己として生きる。
人間を自己としていきる力。55

<神性>★★★★★①
人間は、自らの願望の実現を神に求めるべきではなく、逆に、自分の願望については、断念をし、その上で、果たして神が自分自身に向けている意思は何か、神は自分に対して、何を欲しているのか、思いを巡らせる必要があるのだ。156

<直接性と反省>★★★
⇒★★★★★信仰とは反省の後の直接性だからである。114
反省:
何かが媒介を経て別の何かにたどりつくこと。57
直接性:
何かと何かが媒介なしに直結していること
⇒人間が、キリスト起用の救いに与るという絶対的な目的•価値について何ら考慮することなしに、時間的な物事と直接に結びついている状態。131

⇒★★★★詩的には、直接性こそが、人がそこへと後戻りしたいと切望するものなのである。キリスト教的には、直接生徒は失われた者であり、そして直接性へ後戻りすることは切望されるべきではなく、それでいて、直接性は、再び到達されるべきものなのである。107


②天職について★★★★★
<使命/天職>★★★
私は創作しているときにだけ良い状態でいられる。創作しているとき、私は、人生の不快なことのすべてや、あらゆる苦しみを忘れるのだし、自分の思考に安らぎ、幸福である。79

著作家となるということは、自ら選び取ったことなのではなく、逆に、私という人間の有り様と、その私の奥底からの欲求によるのだ。80
⇒★★★★直接性の芽生え。

【背景】
ルター派は、神が精霊を通じて人間に与えた言葉としての旧•新約聖書を、キリスト者の新行為と行為の唯一のそして完全な規範としている。14

アダムの堕罪以後、自然の理によって生まれるすべての人間は罪(原罪)をもって生まれてくる。すなわち、神を恐れず、紙に信頼せず、肉の欲を持っているとされる。15

【信仰】=何かを信じて生きるということ★★
★ ★★★★信仰とは、自己への無限の関心であり、どこまでも不確かな神意をひるむことなく、尋ね求めることに他ならない。178
③信仰性〜向かうもの★★★★★
⇒「信仰とは内面性の無限の情熱と客観的不確かさとの矛盾をそのまま受け入れることに他ならない」19
⇒「自分自身に関係し、自己自身であろうと欲するに際して、自己を置いた力(神)のうちに透明に自己を基づける」こと20


キェルケゴール=キリスト教的には、信仰とは、客観的な根拠を描くキリスト教の教えをあえて信じるということであり、そのあえての背後に燃え盛る情熱なのである。信仰とは、神が万物を創造したとか、我々には拭い去りがたい原罪が存しているとか、紙が人になったとか、神人キリストがわれわれの罪を贖ったとか、われわれの罪が赦されるとか、最後の審判があるといった、客観的な根拠を描くキリスト教の教えを、あえて全面的に受け入れようとする情熱のことなのである。19

★★★★★③信仰性
信仰とは情熱に他ならないのだとするならば、彼、彼女は一体どのように情熱としての信仰を表現するべきなのだろうか?20

④生きる★★★★★
<自己として生きる>
★ ★あらゆる物事を神との関係により捉え直し、超時間的な価値基準を手に、この時間的な生を生きるということである。21
★ ★★★★われわれの生き方は決して一様に規定されることはなく、われわれは、それぞれが、神の前に一人たち、(すなわち単独社として)自分に向けられているはずの神意を探し求めて生きねばならないのである。22

<誘惑>
すぐに生じないのなら、放っておくか、あるいは明日始めることにして、今日を楽しんだ方がいい というこころの問いかけ 30

不安:私の逸脱、情欲と放埒に。もっとも上野目からすればさほど際立った者ではないのかもしれないが。なぜなら、私が道を踏み外したのは不安であったためであったのだから。41
⇒★★★★★キリスト教の救いを求めて生きるとは、裏返せば世俗的な利益に拘泥せずに生きることに他ならない。すなわち不利益を承知の上で自然的な欲求を押さえ込んで生きることである。123

<罪=死に至る病>
死に至る病とは、罪の根本的な治療を念頭に置いた、罪の意識についての書。それが人間のうちのどこにどのようにあるかを示す書なのである。
キェルケゴールは、死に至る病において、医者という視点に立ち、人間における絶望と罪という死に至る病を治療するための準備作業として、、、

死に至る病:★★★
絶望、罪=本来的な性のあり方である信仰から、我意によって離れてしまっている人間の状態 122
⇒正しいと思っていることを必ずしもできるわけではない、その時に生じる同省もない絶望感=分裂感。124

閉じこもり:
自己の弱さに付いて絶望する人間に顕著に見出だされるもの。122
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