杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿府の名刹宝泰禅寺の名宝展

2009-12-05 11:06:18 | 歴史

 昨日(4日)は午後から浜松で取材があり、少し早めに出て、平野美術館で開催中の『特別展・駿府の名刹宝泰禅寺の名宝展』を観に行きました。

 

 

 JR静岡駅前にある宝泰禅寺は、静岡市民にとっては法事や法話の集いや、映画ファンにはシネギャラリーでおなじみ。さすが駅前に立地するだけあって、人が集まる親しみやすいお寺なんですが、京都や奈良のように寺の歴史や収蔵物に関心を持つことが、(あまりに身近な存在だったせいか)今まであまりありませんでした。

 

 

 10月末に駿河蒔絵師・中條峰雄先生の一周忌法要でうかがったとき、内部を少し見せてもらって、この寺の威容を市民のはしくれとしてImgp1734、ちゃんと知っておかないと恥ずかしいと感じました。直後に浜松で名宝展があると知り、美術館でその一寺だけの寺宝展が開かれるほどの名刹だったのか、と改めて実感したのでした。

 

 

 

 

 静岡の禅寺ならば白隠さんゆかりのものがあるだろうと期待して行ったら、白隠禅師が描かれた禅画・墨蹟が3つも! おなじみの「達磨図」もちゃんとありました。

 

 

 

 室町期に雪舟が描いたと伝わる「西湖図」は、9月に実際に杭州で西湖を観てきただけに、500年を隔ててもなお人々を魅了する名勝だったのかと感慨ひとしお。雪舟作の西湖図が、県都静岡の宝泰禅寺にあるのなら、静岡と杭州Dsc_0105 の友好交流事業にぜひ役立てるべきだと思いました(既にやっていたのなら、ごめんなさい…)。

 

 

 

 

 

 サプライズで感激したのは、朝鮮通信使の書です。朝鮮通信使は江戸へ往来する際に、宝泰禅寺で休息を取ったことは、映像作品『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の脚本執筆時に調査し、通信使関連の史料も残っていることも承知していましたが、静岡市では清見寺という通信使関連では国内屈指の名刹があるため、カットすることに。

 製作の静岡市側にしてみれば、静岡市内の通信使史跡を紹介してくれればいいじゃないか、なんで対馬や鞆の浦や滋賀高月を長々紹介するんだ?な~んて思われたかもしれませんが(苦笑)、これは脚本を書くとき、監督と私で、朝鮮通信使招聘が当時の国家的事業で、それをプロデュースした徳川家康の平和外交の偉業を伝えるには、静岡市内だけの史跡をチマチマと紹介するだけじゃダメだと判断したからでした(・・・なんだか宝泰禅寺の通信使史料を無視した言い訳をクドクド述べてるみたいでスミマセン)。

 

 

 

 そんな心残りのある宝泰禅寺の通信使史料を、今回、思いがけず、間近で観ることができました。展示されていたのは1748年第10回朝鮮通信使の折、正使洪啓禧が宝泰禅寺に書き残した七言律詩。過去、多く目にした通信使の書と同様、優雅でのびのび踊るような文字は、当代一級の文化人だった通信使の代表らしい品格がありました。

 

 

 宝泰禅寺側の住職が返礼に記した書や、通信使を迎える際の「心得」をメモした『朝鮮人来聘之覚』も展示されていました。

 

 寺宝中の寺宝とされる、澄水東寿筆の大般若波羅密多経(1682~1703)にサインをしてほしいと、同行の雨森芳洲を通して通信使にお願いしたという興味深いエピソードも残っています。今回展示された澄水東寿筆の大般若波羅密多経には、残念ながら通信使のサインはなく、本腰を入れて調査すれば出てくるかもしれない、とのことでした。

 

 

 

 

 美術館を後にし、取材に向かう途中、「あ~あ、自分は朝鮮通信使のことを(少なくとも県内に関しては)おおよそ勉強したつもりでいたけど、まだまだ未熟だったなぁ・・・未熟なまんま、よく映画の脚本なんか書けたよなぁ」とつくづく反省させられました。

 

 

 

 歴史小説家や脚本家は、そのジャンルの、「そこそこの知識」を寄せ集めて、ドラマチックに再構成するのでしょう。それはそれで大変な才能だと思います。私みたいに、後から知らないことに気づかされて、いちいち反省しているようじゃ、思いきった脚色はできないでしょうね。

 

 ・・・今年放送された大河ドラマ『天地人』の徳川家康の描き方、あれは静岡市民として悲しかったけど(苦笑)。

 

 

 平野美術館の『特別展・駿府の名刹 宝泰禅寺の名宝展』は、12月20日(日)まで開催中です。こちらをご参考に。