杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

朝鮮王朝と三島の「誠信」

2009-12-14 10:26:53 | 朝鮮通信使

 少し遅くなりましたが、先週9日(水)夜、09年度第3回静岡県朝鮮通信使研究会総会があり、伊豆の国市文化財保護審議委員の桜井祥行先生からとても興味深い近代史秘話をうかがいました。『坂の上の雲』で注目が集まる近代Imgp1746 日本草創期における、三島と韓国朝鮮の知られざるつながりです。

 

 JR三島駅の南口にある、湧水の名所・楽寿園・楽寿館。ここは、もともと戊辰戦争の奥羽戦線で活躍した小松宮彰仁親王の別荘地でした。明治22年に東海道線が国府津まで開通し、国府津からは御殿場線が敷かれて下土狩まで延びた頃、(今の楽寿園のあるところが)水が満々と湧き出る場所ということで建てられました。

 

 

 この小松宮別荘=楽寿館を、1911年(明治44)から1926年(大正15)まで利用していたのが、朝鮮李王朝第26代皇帝高宗の次男・李垠(イ・ウン)です。1898年(明治30)生まれの彼は、1907年(明治40)、わずか10歳のときに伊藤博文に“日本留学”と称して連れて来られ、日本の皇室に組み込まれ、李王世子(英親王)と呼ばれるようになった人物です。

 

 李垠は1911年(明治44)から1926年(大正15)まで毎年のように避暑地として楽寿館に滞在し、小浜池に船を浮かべて櫓を押す姿が当時の静岡新報、静岡民友新聞等に紹介されました。

 

 

 李垠が三島に避暑で滞在したのは14歳から29歳の青年期。三島の市民にとって、皇室は雲の上の存在だったと思いますが、若きプリンスの評判は高かったそうで、田方郡長がヤマメや狩野川のアユを献上した記録や、三島高女の優等生に“李王賞”と呼ばれる硯箱を下賜したという新聞記事が残っています。女学生への表彰は、小松宮の時代から続いていたそうで、李垠もその善き伝統を継承したわけです。

 

 1919年(大正8)に高宗(李垠の父)が亡くなり、朝鮮で国葬が執り行われた日は、三島市内の学校や銀行が休業して哀悼の意を表しました。喪が明けた1920年(大正9)に梨本宮方子妃と結婚したのですが、そのお祝いで三島~沼津の沿道は大変な人出だったそうです。

 

 

 2人の間に生まれた長男は生後7カ月で亡くなり、1931年に生まれた次男李玖氏は、日本の植民地支配から解放後の1947年、皇籍離脱に伴って李王家が消滅したため、1392年から続いた李王朝最後の末裔となったのでした。

 李玖氏は強い反日政策をとっていた李承晩大統領の反対で韓国に戻れず、アメリカにわたってマサチューセッツ工科大学に進み、建築家の道へ。1963年に朴正煕大統領の配慮で韓国への帰国を果たし、晩年は日本と韓国を行き来しながら、2005年7月に東京で亡くなりました。ついこないだまでご存命だったんですね、桜井先生も直接お会いしたことがあるそうで、生前、両親が避暑地として親しんだ楽寿館の建築に強い関心を寄せていた、とのことです。

 

 父の李垠は1970年に亡くなり、母の李方子(梨本宮方子)は1989年に亡くなりました。方子さんは晩年、韓国で福祉教育に尽力し、葬儀は準国葬扱いでした。

 「日本の植民地政策の時代はいろいろな悲劇もあったが、明治末から大正期にかけ、李垠が楽寿館に滞在していた頃は、三島の市民にとって朝鮮通信使並みの人気があり、親しまれた存在だったと思う」と桜井先生。楽寿園は昭和40年代まで水が満々と湧き出ていたんですよね。そこで朝鮮国のプリンスが舟遊びをしていたなんて今までまったく知らず、不勉強でした(恥)。日本と朝鮮半島の暗い時代に、地元でこんな「誠信の交わり」があったことを知ることができ、朝鮮通信使の勉強を続けてよかったなぁとしみじみ思いました。

 

 

 

 実は、三島は朝鮮王朝とのゆかりが他にもあって、ご存知の方も多いと思いますが、三島の佐野美術館の庭園に、朝鮮半島から運ばれたとみられる石造が10体ほど置かれているんです。その中に、高さ4メートルもある『神道碑』があります。神道碑というのは国王の墓の道に置かれる碑のこと。ただしこの碑のことは、佐野美術館の蔵品リストには載っておらず、館長の渡邊妙子氏は「美術館創設者の佐野氏が高島屋美術部から購入したもので、高島屋は多摩川の土手に放置してあったのを運んだという」と静岡県博物館研究紀要(平成19年)に解説しています。

 

 

 兵庫県在住の郭昌坤さん(60)が、学生時代に1年間過ごした三島を今年になって久しぶりに訪ね、佐野美術館によってこの碑をじっくり眺め、文字を解読しようと写真にとって調査したところ、朝鮮国王子楽善君の神道碑で、撰したのは五衛府都総管の朴弼成であることが判明しました。

 楽善君とは、李王朝16代国王仁祖(在位1623-49)の子で、仁祖は、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵攻)で活躍した第15代王光海君(韓流ドラマ『王の女』の主人公でもおなじみ)がクーデターで廃位された後、即位した王。正妃の次男が第17代孝宗となった。楽善君はその異母弟にあたる人物です。

 

 

 この神道碑に書かれた内容が判明すれば、楽善君の死の真相も解明されるはず、と、郭さんは専門家に検証を依頼することに。相談を受けた県朝鮮通Imgp1743 信使研究会が拓本を取り、今月、民団の関係者に届けた、という次第です。その4メートルもの拓本のコピーを、この日の総会で見せていただきました。

 

 

 検証はこれからなので、どうなるかわかりませんが、もしホンモノの神道碑ならば、被葬者が特定できる石造物は非常に貴重なので、本国へお返しすることになるやもしれません。金両基先生によると「楽善君の墓はソウル壽進宮にあったとされるが現況は不明。彼は聡明な王子だったが後継者争いに負け、日蔭の人生を歩み、死後その人柄が再評価されて神道碑が建てられたと考えられる」そうですから、なんとか真相を解明したいですよね。

 

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