10月8(土)~9(日)日と両親を車に乗せ、伊豆修善寺の母の実家の法事に行ってきました。絶好の行楽日和で、久しぶりに休日の観光地で世間並みに休日気分を満喫できた心地です。
まず8日(土)は御殿場まで足を伸ばし、しずおか地酒研究会でお世話になっている『みなみ妙見』さんでお昼をいただきました。こちらの記事の通り、店主の池谷浩通さんが来週末、SBS学苑イーラde沼津校で魅力的な講座を担当されるということで、激励のつもりでお寄りしたんですが、却って気を遣っていただいちゃいました。
何より有難かったのは、池谷さんのお母様が、うちの母と同じ高校の1年違いで、母の従妹と大親友だったと判ったこと。従妹も御殿場の商家に嫁ぎ、池谷さんとは今も大の仲よしだということで、その場で従妹を呼んでくださったのです。母が従妹と会うのはウン十年ぶりで、大喜びしてました。世間は狭いなあ、ホント・・・。
午後は、当ブログに時々コメントをくださる猫爺さんに教えていただいた東山旧岸邸を観に行きました。御殿場にセレブの方々の別荘が多いのは知っていましたが、岸信介元首相の別邸があって、市が管理していて一般公開されているのは初めて知りました。
近代数寄屋建築の祖といわれる建築家吉田五十八の晩年の作品とのことで、自然と伝統と機能性が見事に調和しているって素人の目で見ても解ります。
この、食堂から見た庭の風景・・・押込戸式になっていてガラス戸や網戸や雨戸がきれいに収納され、庭の木立が額縁絵画のように見えます。新緑や紅葉の季節はさぞ見応えがあるでしょう。こういうお宅って、政界や財界のお偉いさんが内緒話をするにも重宝したでしょうし、一種の私的迎賓館の役割もあったのでしょうね。芸術文化は、そういうチカラが支えていたという側面を、改めて実感します。
敷地内には、和菓子の雄・虎屋の『とらや工房』があり、作りたての生菓子やランチ・和風スイーツが味わえます。
東山旧岸邸のすぐ近くに、御殿場プレミアムアウトレットの場外パーキングがあったので、年寄りを連れて行くのは少々気が引けたけど、めったに来ないところだから、と、パーキングに車を入れてアウトレットへ。
あまりの人ごみに、父親はうんざり顔でしたが、母は法事に着て行くブラウスを買うと大はりきり。4日の新静岡セノバ内覧会に、開店前から並んで、「若い娘向けのブランドしかなかった」と残念顔していたくせに、アウトレットで入るのは、どうみても若い娘ブランドの店ばかり(苦笑)。フェミニン系の某ブランドでサイズの合ったブラウス2枚をゲットして満足顔でした。私と父は、ニコンのお店で発売前の新作カメラが紹介されていて、その前でウ~ンと唸りながら、結局手が出ず
半日だけの御殿場滞在でしたが、女子会のプチ旅行なんかに最適かも、ですね。
夜に修善寺入りして、両親が気に入っていたという五葉館という旅館に泊まりました。
先月末にリニューアルしたばかりで、昔ながらの庶民派旅館の趣きはなくなり、若い客層を意識したような和風モダンな室内に。イメージが変わり過ぎて両親は少々戸惑っていました。ネットで確認してみたら、テレビドラマの美術を手掛けたデザイナーさんがアレンジしたようです。
唯一、昔の面影が残っていたというのが大浴場の岩風呂。お風呂は他に木のお風呂、小さな貸切露天風呂が新設されたようですが、どれも心地良かったです。やっぱり温泉宿はお風呂の満足度が高くなくっちゃね。
両親が楽しみにしていたのが、朝食の黒米のおかゆ。黒米の揚げそばも出てきて、どちらも少量でササッと味わえました。
ごはんは修善寺こしひかりの新米。修善寺で何かと顔の広い専業農家の叔父(母の弟)のショウちゃんが、地元農産物を使ってくれと温泉街に働きかけて、徐々に各旅館で“地産地消”化が進んでいるそうです。ショウちゃんの米か~と思ったら、残すのがモッタイナクなって、朝っぱらから大盛り2杯食べてしまいました。
修禅寺で執り行われた法事は、祖母の四十七回忌です。母方の祖母は、私が2歳のとき、49歳で急死したので、私にはほとんど記憶がありません。ただ、10月11日で49歳になる私がこのタイミングで、2歳のお葬式の時以来、祖母に手を合わせることになるというのは、何かの巡り合わせかな・・・と感じるものがありました。
母の実家は修禅寺の古い檀家なので、本堂内部や位牌堂、ふだんは一般公開していない庭園も見せてもらいました。修禅寺にこんな素晴らしい庭園があったなんて、初めて知りました 庭園は11月19日~30日、紅葉のピーク時に合わせて一般公開されるそうなので、一度は観ておきたいですね!
修禅寺の前からとっこの湯~竹林の小径と、京都を意識したような清々しい散策路が続いています。
うちの家族は修善寺に、観光目的で来たことがなく、温泉に泊まるということもほとんどないので、ここを歩くのもほぼ初めて(苦笑)。中国人や韓国人とおぼしきツアー客も見かけました。母にとっては隔世の感があったらしく、
「私が子どもだったころ、修禅寺の正門前を修行中の小僧さんたちが一生懸命箒掛けをしていた」
「高校に進学できる子が少なかったから、お母ちゃんからは“通学途中で友達としゃべくったり寄り道なんかするんじゃない、下を向いて一目散に帰ってこい”と注意された」
「お母ちゃんが、収穫したコメを精米するとき、こっそり余分に袋に取って蔵の奥にしまい込んで、私が参考書を買う時に、“温泉場の青果店でお金に換えてもらえ”と持たせてくれた」
等など、ちょうどNHK朝ドラでやっていた『おひさま』の時代を彷彿とさせるような思い出話を聞かせてくれました。
母の実家は、温泉街から少し離れた、修善寺小学校の奥の「中島」という集落にあり、祖母が亡くなったころは、まだ土葬の習慣が残っていました。実家の裏山にある一族の墓地は、2年前の駿河湾沖地震のとき、墓石が大きく破損し、昨年の集中豪雨で遺骨の一部が流されてしまいました。
母の実の父、つまり私の実祖父は昭和20年2月、中国重慶で32歳で戦死しており、残された祖母は祖父の末弟と再婚しています。母にとっては、年齢が10歳ほどしか違わない叔父が義父になったわけです。私にとっては大叔父さんかつ義祖父ということかな。
大叔父と祖母の間には、ショウちゃんが産まれ、47年前に祖母が亡くなった後、大叔父さんは、子どものいた女性と再婚し、今は血縁があるなし関係なく、たくさんの孫やひ孫に囲まれ、穏やかな晩年を過ごしています。ちょっと複雑だけど、家を守るため、農村では珍しくないケースのようです。
大叔父さんは、とにかく自分が元気なうちに墓を再建をし、先妻の四十七回忌をやるんだと強く願っていました。それをちゃんと済ませないと往生できないって思ったのでしょう・・・昨年のうちに土葬の遺骨を丹念に拾い上げ、墓石を再建したのです。
法要をいとなんでくださった修禅寺の若い和尚さんから、「四十七回忌をこれだけしっかりやられる家は少なくなった。素晴らしいことです」と褒めていただきました。和尚さんが若い方だったので、なんだかよけいに心に残りました・・・。
大叔父さんの一念で甦った一族の墓石には、会ったことのない実祖父の亡くなった年月日や場所、その弟も戦死していたこと、曽祖父母やその前の世代の人の名や亡くなった年等など、初めて知る家族の歴史が記されていました。
当たり前だけど、お祖父ちゃん兄弟があの戦争で命を落とし、明治や大正に亡くなったご先祖は江戸も幕末も維新も経験しているんだと思うと、今まで傍観者的に興味本位で読んでいた歴史の本やドラマが、急に身近な出来事に感じられます。
・・・それにしても、歴史好きのくせに、身内の歴史はほとんど知らなかったという事実に、今さらながら唖然とします。お墓って本当に大切な記録であり、記憶を呼び覚ます装置なんだって実感・・・。
真新しい墓石群を眺めていたら、ふと東北の被災地のことを思い出しました。母の実家は幸いにもお墓を再建できましたが、被災地では、先祖供養どころか震災で亡くなったお身内をまともにご供養できない方も多いでしょう。
2011年は、日本全体が手を合わせる年になり、被災した人も免れた人も、自分の家や地域という足元を見つめ直したことと思います。その延長線上に、今ある自分の存在意義=先祖の記憶を呼びもどし、記録する作業を忘れてはいけない、と思いました。
帰りがけ、母が女学生のころ、米を持って行って参考書代にしていたという温泉街の丸屋青果店 に寄り、名物の手作りらっきょうを購入しました。お店は今は代替わりして母を知っている人はいませんでしたが、60年前の記憶巡りをした母はとても満足そう・・・。
自分にとっても、誕生日にふさわしい、とても大きな贈り物をもらえたような2日間でした。