さて中尊寺金色堂です。
芭蕉は奥の細道でもっとも期待していた場所の一つです。厳かな気持ちで歩きました。
平成23年「平泉一仏国土(浄土)を表わす建築・庭園および考古学的遺産群ー」として世界遺産委登録されました。
金色堂新覆堂(おおいどう)
観光ポスターや旅行雑誌どれを見てもここからのアングルになってしまいますね。
昭和37年から7年間の解体修理が行われました。旧覆堂からこちらに移し、中には金色堂がガラススクリーンで覆われて空調設備の整った環境です。
せっかくの世界遺産です。ご隠居もどさくさに紛れて一枚!
さて中に入ってみましょう。
ここからは撮影禁止なのでパンフレットで我慢してください。
薄暗い場内に入るとガラスケースの中で輝いています。
いやぁ・・・・・・・・素晴らしい。
おもわず
五月雨の 降り残してや 光堂
です。
4本の巻柱に長押、白く光る夜光貝の細工、透かし彫りの金具、漆の蒔絵と工芸技術を結集して荘厳さを醸し出しています。
仏像は須弥壇の上にご本尊の阿弥陀如来、その前に観音菩薩と勢至菩薩、左右に地蔵菩薩、そして持国天と増長天が邪鬼の形相でこの世の仏界を守護している形になっています。
嵐山光三郎さんは
光堂をたたえつつも芭蕉は「五月雨を降りのこしている・・・・」という感慨を詠みきった。覆堂があるのだから、もとより五月雨が降りかかることはないのに、あえてそうほめそやしたのである。
ということは、芭蕉は五月雨が降り注ぎ金箔がはげおちて朽ち果てた光堂を幻視していたことになる。
そこにいる客は嘆声をあげて金色堂の須弥壇の前に立ち、ただ茫然と口を開けているばかりだ。
が、嘆声はやがて無常の溜息となって行くのだ。
「五月雨の・・・」の句碑が、訪れる者の詠嘆を見さだめるように金色堂のわきで雨に濡れている。
覆堂も手前に標柱を入れるといい写真になったんですね。今から行けないから残念です。
さあ感激を胸に外に出ました。
経蔵
「中尊寺経」を納められていたお堂。
真紅に色づいたいろはもみじが降りしきるころが見頃だそうで、境内一の秋光です。
煌びやかな金色堂と比べて侘び、寂の世界がまた素晴らしそうです。
金色堂旧覆堂。鞘堂(さやどう)ともいいます。
かつてはこの中に金色堂があり風雪から護っていたそうです。
もちろん松尾芭蕉もこの薄暗い中に入り参拝しました。
うっすらと光が差し込む堂内で燦然と輝く仏像群を見た芭蕉はどんな感想だったのでしょうか。
ご隠居のような凡人には見当もつきません。
芭蕉と奥の細道句碑
中尊寺の北方鎮守、白山神社内には能舞台があります。
5月4日・5日は白山神社の祭礼で古実式三番と御神事能が行われます。
山全体がおごそかです。
鯉のぼりがだれています。かなり降りてきました。
もうすぐ端午の節句かと思い(4月27日の旅)俗世界に戻った気分です。
次は毛越寺です。
平泉(後半部分)
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。
(かねてから壮麗さを話に聞いて驚嘆していた中尊寺の二堂を開帳する)
経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
(経堂は藤原三代の像をとどめ、光堂は棺を納め、弥陀三尊を安置してある)
七宝散り失せて、珠の扉は破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃(たいはい)空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎしばらく千載の記念とはなれり。
(絢爛豪華な七宝も消え失せ、珠玉を散りばめた扉は損壊し、金色の巻柱積年の霜雪のため腐朽してもうすこしのところで廃墟になる所だった。
堂の四面を新たに囲み、上から屋根を覆って風雨を凌いだ。こうしてはかない現世におけるかりそめの間ながらなお千古の記念となっている)
五月雨の(さみだれの) 降り残してや 光堂
(この寺の建てられた以降、500年にわたって年々降り続いた五月雨も、ここだけは降り残したのか、五月雨けむる空のもとで、光堂は毅然と輝いてかつての栄光を偲ばせている)