ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

鎌倉・金沢街道界隈

2015年02月17日 | 旅行

久しぶりで鎌倉にやってきました。

日本の大観光地、鎌倉はまだ当ブログでも紹介していませんでした。今回は鎌倉でも東部の金沢街道を歩いてみました。

鎌倉駅 鎌倉の玄関口です。

金沢街道は県道204号線、鎌倉から横浜市金沢区を結んでいて金沢八景駅行きのバス(5番乗り場)が数分間隔で運行しているので乗ったり下りたりして観光するのに便利です。

しかし鎌倉に来たらやっぱり最初は八幡様にお参りしましょう。

日曜日だったので人出がすごかった。お水舎にも外人が多く見かけられます。

最近観光地もブランド力に差がついてきたみたいで有名な観光地は外人さんも多いし日本人客も大挙押し寄せています。リピーターが多いのか美味しいお店など長い行列です。反対に閑古鳥が鳴いている観光地も多い。

中途半端な観光で町おこしを考えても集客は難しそうです。

日本人だったら誰でも知っている八幡様の大銀杏。

奥に見えるのが平成22年3月10日に倒木した残骸です。手前に大事に若い木が育てられています。

舞殿では結婚式が行われていました。観光客に見られて少し恥ずかしいのではないでしょうか。

あまり歴史が得意ではないご隠居でも大銀杏の下で鎌倉幕府三代将軍源実朝が公暁に暗殺されたという話ぐらいは知っています。

公暁は二代将軍、源頼家の嫡男です。頼家は北条時政の謀略で失格したそうですが実朝さんは誤解で親の仇打ちにあったのでしょうか。

約900年前に源頼朝の軍事政権が樹立された時はどんな感じだったのでしょうか。

テレビもネットもない時代。地方では今度頼朝というのが鎌倉のほうで将軍になったそうだが遠いから適当にやっていても分からないだろう思っていたりしていたら・・・・・

あなどっていたらあっという間に大軍が押し寄せてきてたまげたなどと言うことになったかも。

平家の落ち武者狩りに東北や九州の山奥まで行ったというからこの国は昔から情報は速かったのかもしれません。

実朝さんは和歌が上手だったみたいです。

 

箱根路を わが超えくれば 伊豆の海や 沖の小鳥に 波の寄るを見ゆ

 

さて杉本寺にやってきました。いつ来ても白い奉納旗がすがすがしい。「十一面観世音菩薩(杉本漢音)」と書いてあります。坂東札所一番です。

堂内には坂東一番寺なので納経帖や地図・案内書などそろっています。

観音様のとりもつご縁で古人が歩んだ跡を巡拝して幸福な気分になっては如何でしょうか。

ここから房総半島の那古観音まで関東地方をぐるり一回りする坂東33ヶ所巡り。時間もかかりますが充実感もあります。

ご隠居も昔、休日に電車で、マイカーでと2年かかってひと回りしました。そのおかげで毎日金はないけど楽しく暮らしています。

次に報国禅寺にやってきました。竹林の美しさで有名です。

 

足利氏ゆかりの寺院です。宅間谷戸とわれる谷間にあり静かな場所です。

川端康成はこの山あいのしじまの音なき音を「山の音」と表現しました。

休耕庵で抹茶をいただきました。

これで500円は高い?景色代も含まれていると思えば納得です。

さらに報国寺より坂を登ると旧華頂邸があります。

皇族出身の華頂博信候が昭和4年に建築した洋風建造物です。

 

庭の方に回ってみました。テレビのロケに良く使われるそうでドラマで見たことあるなという感じです。

邸内の見学は通常はできないみたいです。

さて次は浄妙寺です。

鎌倉五山第五位

臨済宗では寺院の格付けがあるみたいで現在は京都五山、鎌倉五山が残っているそうです。この上の別格が京都南禅寺です。

ミシェランの格付けみたいで面白いですね。

 

この後は滑川に沿って十二所(じゅうにそ)まで歩きそこから山道に入り朝比奈切り通しに向かいます。

途中青砥藤綱の墓があります。

名吏で知られ財政家もしくは訴訟の公正な裁き手でした。 この時代の人としてはケインズの経済学の分かる人でした。

夜、銭10文を落としてそれを探すために銭50文をもって松明十把買った話があります。

ご隠居の好きな話ですがここまで書いて来たら疲れました。興味のある人はネットで調べてください。

十二所で峰本朝比奈店で精進料理を食べました。

けっこうお腹が一杯になり元気も出てきたので県道と別れて山道に入ります。まだ歩くのでお酒は飲みませんでした。どうでもいいようなことですが。

ここまで来ると鎌倉駅前の賑やかさがウソのようです。

この滑川の小さな流れが鎌倉の市内まで続きます。鎌倉時代のセーヌ川といったら言い過ぎでしょうか。

やがて朝比奈切り通しに着きました。

朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説からこの名前がついたとか。

本当のところは1241年鎌倉幕府執権北条泰時が命じて作らせた切通しです。鎌倉七口のうちで、昔の姿を一番残しているとか。

むかしの武士は何を思って切通しからの狭い空を見ながら通ったのでしょうか。

 

今回の鎌倉の旅はこれで終わりです。


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