水戸偕楽園の梅まつりに行ってみました。
金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつです。梅の名所ですね。
常磐線をまたいで南門の方から入りました。
少し坂を上って好文亭の方に向かいます。
なにはともあれまずは好文亭です。
好文亭は木造二層三階建てで好文亭本体と奥御殿からなり、二つの建物は太鼓橋廊下で結ばれています。
昭和20年の水戸空襲で焼失、また東日本大震災で被災しましたが何とかこの賑わいに戻りました。
歴史的建物にもそれなりの歴史があるのですね。
庭園も奇麗です。
3階に上ると千波湖が良く見えました。
徳川斉昭公はここからの景色を愛でて文人墨客、家臣、などを集めて歌会や慰安会などを催したのでしょうか。
長閑ですね。
護国神社も見えます。
水戸家といえば二代藩主徳川光圀公を思い出します。
大日本史を編纂した人と云うよりは「水戸黄門」様で有名ですよね。
もっとも光圀公は関東地方よりは外に出たことはほとんど出たことはないと言われているので面白いですよね。
助さん、格さん、風車の弥七、うっかり八兵衛、引き連れて、かげろうお銀もいましたねぇ。楽しそうな旅でいいですよね。
必ず最後は悪人が懲らしめられるのがわかっているので安心してみていられる。
現在だったらあの麻生財務大臣、善悪は別にしてもみんな気に入らないと思っているから黄門様でも出てきてどうにかしてくれませんかねぇ。
さて外に出て園内をぶらつきましょう。
若い人に囲まれて楽しそうです。
ご隠居も含めて人生最後まで楽しく生きていきたいですね。
こちらは将来の日本の借金や年金を支えてくれる諸君。
元気で大きくなってね!
徳川斉昭公は第九代藩主です。
幕末に藩政改革を推進して海防参与として幕政にも関与。
NHK大河ドラマ、西郷さんにも出てきますね。
1833年に梅林計画を立てました。七面山と呼ばれる大地の一画を切り開いて飢饉と軍用の非常食として梅の木を植えさせたといわれています。
そのおかげで今こうして美しい梅林を見ることができます。
徳川斉昭公の七男として水戸藩邸に生まれた徳川慶喜はご存知のように第15代将軍となりましたが翌年には大政を奉還して辞職。
最後の将軍いなってしまいましたが静岡に戻ってのんびりと人生を楽しんだようです。
フランス革命みたいに過激ではなくて日本人らしいですよね。
正岡子規も偕楽園を明治29年に訪れています。
崖急に 梅ことごとく 斜めなり
すぐに桜に季節になりますが梅はせっかちにすぐに花が散らないところがいいですね。
園内ではお弁当を広げている人は沢山いましたが酒を飲んでいる人はあまり見かけませんでした。
売店でも酒はないようでしたが気のせいかな。
ご隠居も年のせいか、花なんか関係なく酔っぱらっている人を見るのは嫌だなと思いようになりました。
お酒はレストランにでも入っても飲もうよ。
ご隠居の好きな歌
「想い出の木の下で」 のようです。
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