千葉市の「史跡加曾利貝塚」が国特別史跡指定を申請しているそうです。いわば重要文化財から国宝に変わるようなものだそうです。
天気もいいし父の命日も近いので墓参りしながら午前中加曾利貝塚公園行ってみました。
千葉市民なら小学校の遠足などで一度は訪れたことがある場所。年を取ると今度は社会福祉協議会の行事でまた参加しましたというほど馴染みのある場所です。
丘陵の雑木林が春よ早く来いという感じで佇んでいました。
まずは博物館に入ってみましょう。
縄文時代の貝塚は全国に約2400か所あるといわれています。全国には貝塚という地名も多いですね。その内700か所が東京湾沿岸に集中していて千葉市内には約120か所。
千葉市内はある意味貝塚の宝庫ですが、その中でも加曾利貝塚は日本最大級だそうです。
縄文時代のファッションですかね?人間は何千年前でも貴重なものを身に着けるのが好きだったんですね。
左の人のペンダント?は翡翠(ヒスイ)だそうで日本では新潟県の日本海の浜辺付近でしか産出していないので長いルートでここまで来たのでしょうか。
右側の人の腰のあたりの黒い飾りは神津島で獲れた黒曜石です。これも不思議です。島から伊豆半島、陸路を通ってここまではるばる来たのでしょうか。
昭和天皇もおいでになったようです。
うまく撮れていませんね。貝塚の断層です。ものすごく小さな貝が多い。
縄文時代中期(5000年から3000年)、直径140mのドーナツ型の北貝塚と直径190mの馬のひずめの形をした南貝塚が一部重なっていて8の字の形になっています。
これは北貝塚で南貝塚の方が新しい。
こちらは南貝塚です。
時代が進んで温暖になってきたのか貝も大きいものが多いようです。
全国的にも貝塚の実際の地層の断面が見られるのは珍しいそうです。
加曾利貝塚から出土する土器は(加曾利B式)とか(加曾利E式)とか命名され時代を物語っています。
ガイドの女性にいろいろ聞いたのですが自宅に帰ったら殆ど忘れてしまいました。ぼけ老人です。
興味のある人はネットにたくさん記載されているので検索してください。
縄文時代のマイホーム。これならローン組まなくても建てられそうで将来借金に苦しまなくてよさそうです。
前に立っている女性がボランテァのガイドさんで親切によく説明してくれました。
休日や遠足のシーズンを避けてくるとじっくりガイドすることができるとのインフォーメションです。
こんな広い場所ですが1万年も前は鬱蒼とした林に囲まれた小さな広場だったのでしょうか。
集落と言っても30人ぐらいしか生活していなかったみたいですよ。食料の関係でしょうか。
坂月川の船着場かとも言われています。
ここから丸太をくりぬいた船に乗って東京湾まで行きそこから広大な砂州で貝や魚を採ったのでしょうか。
とにかく加曾利貝塚は海に面していたわけではなく丘陵の湧水、林の実や鹿など捕獲するのに便利な場所だったので生活場所として最適だったのかもしれません。
突然江戸時代の旧大須賀住宅が現れました。(幕張から移築)
冬は寒そうですね。
昔は宇宙人がいてモデルになっていたのかな?
お祭り広場 冬のやわらかい日差しが縄文人の生活を想像させてくれます。
縄文人はここで豊作の年は喜んで踊ったのでしょうか?
まだ10%も研究が進んでいないそうでこの約13万㎡の下には貝のほかいろいろなものが眠っているそうです。
ツタンカーメンの黄金のマスクみたいなものでも埋蔵されていたらすごいですねとガイドさんに言ったら
「ないない」と笑って手を振っていました。
地球の歴史、48億年からみると縄文時代の何千年かはわずかな期間。さらには文明が急速に発達したこの200年は瞬きするぐらいですがずいぶん環境を破壊してしまいました。
一日10時間もスマホをみて過ごす人がいて、作物の豊作、凶作なんか関係なく、手段を選ばず金儲けを考えるおれおれ詐欺が出没、100年後の地球はどうなるのかな?
ご隠居は千の風になって空から見ていましょうかね。
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