新年になっても毎日冷たい風が吹いて寒いですね。
今年も13日がたってしまいましたが仕事の方は調子が出てきたでしょうか。
佐倉まで行く用事があったので宗吾霊堂に立ち寄り参拝して来ました。
仁王門
佐倉宗吾(木内惣五郎)という人をご存知でしょうか。ご隠居も詳しくは知らないので「実説 佐倉宗吾伝」を読んでみました。
大本堂
惣五郎は印旛郡公津村の割元名主でした。江戸時代の正保に入り佐倉領では大飢饉に見舞われました。
それにもかかわらず29種にわたる不当な重税を課して過酷な取り立てをしました。
消費税に県市民税、自動車重量税・・・これは現在でした。そのうち今でも一揆がおこるかもしれませんね。
でも暴力はいけません。不満の決着は選挙で行いましょう。
薬師堂
当時の佐倉藩は堀田正信が治めていましたが江戸での国政が忙しくて国家老の池浦主計に任せていました。
これが間違いで勝手にいろいろ増税しました。商店でも番頭任せにしておくとわけわからなくなるのと同じです。
もっとも戦前の三井財閥みたいに番頭の力量で大きくしたなどという例があるので一概には決めつけられません。
正保2年9月389ヶ村の人々は一丸になり一揆を起こそうとしたのですが惣五郎の慰撫で名主総代に一任ということで事なきを得ました。
惣五郎が日頃から農民たちから信頼を受けていました。
宗吾様御霊廟
しかし国許では如何ともしがたく江戸、堀田家上屋敷に嘆願書を出しましたが却下されました。
次は幕府への上訴を考え公明英才の噂の高い久世大和守に訴えに及びましたがだめでした。
ほとほと困り名主たちは帰国したが惣五郎を始めとして6人が江戸に残りました。
最後は将軍家に直訴するしかないとの結論になりました。
しかし直訴は再び故郷に土を踏むことなどできず死罪です。
だが6人で行動すると目立つので惣五郎が一人で引き受けました。
とにかく家族に後難が及ばぬように且つ諸般の後始末をするために単身こっそり一度帰郷しました。
歌舞伎などで有名な雪の甚兵衛の渡しの場(吉高の渡し場)などがあります。
現在でも464号線(宗吾街道)の近くにありますので寄ってみるといいでしょう。印旛沼が大きく広がっています。
惣五郎には妻、欽と4人の子供がいたが離縁状を差し渡しその夜のうちに江戸に戻りました。
そして承応元年12月20日訴状を隠し持って東叡山の入り口の前にある三枚橋のほとりに身をひそめ時の来るのを待ちました。
12歳の徳川4代将軍家綱は後見職の保科肥後守正之を側近い従え、行列もおごそかに三枚橋に差しかかった。
惣五郎は脱兎のごとく走り寄って訴状を肥後守の手に収めさせました。惣五郎は直ちに縄を打たれました。
その後 訴えの結果は?妻や子供たちの処分はどうなったか?国家老の役立たずはどうなったか?
ご隠居の話が面白かったらこの続きは宗吾霊堂に行って宗吾御一代館にて見聞を広めてくださいね。
宗吾霊堂には京成電車で宗吾参道駅より徒歩10分ぐらいです。霊堂からバスで甚兵衛の渡しにも行けます。水ぬるむ桜の咲く頃行くといいでしょう。
いろいろ長々となりましたが宗吾霊堂は義民宗吾様を祀る大本山鳴鐘山東勝寺の管理する仏堂です。
肝心なこと書くの忘れていました。
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