5月1日 サンデーモーニング
福島原発を含め、日本の原発は現在54基。
世界で唯一の被爆国となった日本が、なぜ原発を国策にしたのか。
1954年3月、中曽根康弘議員ら4人の議員が原子力予算案を国会に提出。
のちにこれが成立し、原発は国策としての第一歩を踏み出す。
中曽根康弘著「政治と人生」
「原子力の平和利用については、
国家的事業として政治家が決断しなければならないという意を強くした。」
この年、日本のマグロ漁船、第5福竜丸が米の水爆実験で被爆。
日本は大きな不安と怒りに包まれた。
反核・反米世論が強まるが米は世論を転換するための大キャンペーンを行ない、
メディアキャンペーンの際中心的な役割を果たしたのが正力松太郎氏である。
正力氏は当時、読売新聞社主で日本テレビの社長を務めていた。
新聞には連日原子力に関する記事が掲載される。
さらに各地で原子力平和利用博覧会というイベントを開催するなど
さまざまな方法で宣伝が行なわれた。
こうした中での国策原発。
その過程にも厳しいせめぎ合いがあった。
企業の社会的責任を提唱したことで知られる東京電力社長 木川田一隆氏は、
原発は悪魔に魂を売るようなものと考えていたが、原発を受け入れた。
一般国民には見えない部分での国策。
その一方で時代の動きを巧みに使った、国民への働きかけもある。
2度のオイルショックで供給に不安のある石油に比べ安定した供給が見込める。
そして地球温暖化の原因となるCO2を出さないクリーンエネルギーとするなど
原発の必要性が強調された。
小学校用の教材には
「もし地震が起きたとしても放射性物質がもれないよう頑丈に作りまもられています。」
「いざという場合でも周囲への影響をふせぐしくみで安全。」
という記述がある。
国策という看板を背負って半世紀。
そのあり方が問われている。