7月13日 編集手帳
国語学者の金田一春彦さんに初恋の回想がある。
旧制浦和高校に入ってまもない初夏のこと。
学生寮から東京に帰省したとき、
近所の道で可憐(かれん)な少女ににっこり挨拶(あいさつ)された。
〈魂が宙に飛ぶというのはこういうときだろうか〉(東京書籍『ケヤキ横丁(よこちょう)の住人』)。
恋文をしたため、
少女宅の郵便箱に託した。
やがて返信が届いた。
〈私の娘は、
まだ女学校の一年生である。
貴下の手紙にお返事を書くようなものではない。
貴下は立派な学校に入学された前途ある方である。
どうか他のことはしばらく忘れて学業にいそしまれよ。
少年老い易(やす)く…〉
何年かして応召するとき、
見送りの人垣のなかに少女の顔を見つけた。
金田一さんが少女と初めて言葉を交わしたのは、
それから30年余り後のことである。
「あの日、
理由は何も告げず、
父は言いました」。
きょう出征する人の見送りには必ず参列しなさい、
と。
かつての少女は、
「うたのおばさん」として親しまれる童謡歌手になっていた。
安西愛子さんの訃報(ふほう)(享年100)に接し、
金田一さんの失恋談議を読み返している。
謹厳にして情けあり。
昔は立派な父親がいた。