12月15日 読売新聞「編集手帳」
海面に、
横倒しの船体がかすかに見える。
懸命にはい上がろうとする大勢の生徒たち。
正視するのもつら過ぎる写真が本紙大阪版の1面に載った。
1955年5月、
高松市沖で起きた宇高連絡船・紫雲丸の沈没事故である。
濃霧の中で貨車航送船と衝突、
修学旅行生ら168人が犠牲となった。
航送船から写真を撮った乗客の手記が翌日の紙面にある。
シャッターを切る以外一体、
何ができる。
泳げ、
生きよ、
涙しながら、
ただ叫んだ…
岡山県宇野港と高松港を結んだ旧国鉄・JRの連絡船は明治以来、
瀬戸大橋が架かるまで2億5000万人を運んだ。
かつての大動脈は今、
フェリーが日に5往復するのみで、
その定期便も、
きょうを最後に休止するのだという。
消えゆく宇高航路の名に、
改めて四国と本州とが海に隔てられていた時代を思う。
春、
瀬戸の海はしばしば霧が立ちこめて、
事故が起きやすい。
本四架橋の計画は紫雲丸を始めとする数々の犠牲が後押しした、
とも言われる。
けれど事故から数十年の時を経た法要の場で生存者が語ったそうだ。
「同級生たちは、
橋のために生まれてきたわけじゃない」と。