子どもは学校で多くのことを学びます。授業で学問を学ぶ、部活で技術や技能を学ぶ、学校行事で人とのつきあいかたを学ぶ・・・。いろいろとあります。
なかでも、ちがいを学ぶという点もたいへん重要です。子どもは幼いころには、自分のものの見方しかできません。でもそれは、自分だけの見方しか知らないのだから当然です。
ということは、子どもは幼いころは、対人関係で自分の言葉や行動で、相手がどう思うかということは、ほとんど気にしていないことが多いのです。
ところが、年齢が上がるとともに、性格のちがいや、物事に対する別の考え方や見方があることに気づきます。そして自分と友だちでは、ものごとのとらえ方や考え方がちがうことを発見します。
そのうえで、他者の行動や発言を理解しようとするのです。
ただし、だからといって、相手の行動や発言は尊重すべき、絶対的なものだと思う必要もないのです。相手の望ましくない行動や発言に出会っても、相手の性格やものの見方・考え方からすれば、そうなるのもしかたがないか、という理解です。
つまりある意味での「あきらめ」です。じつは「あきらめ」と「受け入れ」(=「認める」)は表裏一体なのです。
私は小学生のとき、須磨の海(神戸市)にクラスで遠足に行ったことがあります。浜辺で釣りをしていた兄ちゃんが、「ボク、これあげるね」といって、小さなタコを私の手のひらにのせてくれました。
あまりにもうれしくて、私は担任の先生に「これ、もらった」と見せました。すると、その先生はどうしたのでしょうか。
なんと「学校で飼います」といって私の手からタコをとりあげました。私はもらったうれしさをわかってほしかっただけなのに・・・。先生にあげようとは思っていなかった。
さらに心が傷ついたのは、次の日、学校へ行くと、教室の水槽の中で、タコは死んでいました。子ども心に、かなりのショックを受けたことを、鮮明に思い出します。
いまになって当時のことを考えると、その時の先生はなぜタコをとりあげたのか、いろいろと理由を思いつきます。
「山間部の学校だから、海にいるタコをみればほかの子も喜ぶ」、「この子はもらったことを私に報告して、譲り渡そうとしている」「帰り時刻が迫っていて、あせっていた」・・・。
様々な理由を考えていると、タコをとりあげられたことを思いつめる深刻さや無念な想いが緩んでいて、「まあ、先生は『そういう人』やったんや」というあきらめに私の気持ちは収束されていきます。そして「仕方がないか」と受けとめている自分に気づくのです。
「そういう人」と思うことは、そのような考えと行動をする人なのだから、それとはちがう応対を期待しても仕方がないのだ、という受け入れが生まれるのです。
このような経験から、私は次のように思います。
これからのグローバル社会では、外国人の異なった考え方や、価値観の相違、文化のちがいにいやおうなく遭遇します。
そのとき、多様性(variety)を受け入れ、合意を形成していくためには、相手に「こうあってくれればいい」というより、相手は「そういう人なのだ」と認めることが必要となるのかもしれないと思うのです。
多様性の受け入れは、グループの中での同質性を求め、自分だけがちがった行動や発言をしないように気をつかう中学生にも求められる時代のニーズです。