箕面市内のある中学校の体育の授業でのことです。
一人の女子生徒がケガをしていて、その1時間の体育ではハンドボールの実技を見学することになっていました。
その子に対する体育担当教師の話し方が鮮やかで、印象に残りました。
「〇〇さん、今日1時間は、たいへんな仕事をしてもらおうと思います。こちらにあるんだけど」と言って、近くの体育倉庫までいっしょに行きました。
「このラインカーで、二つのハンドボールコートのラインを引こうと思うんだけど」
「けっこうたいへんなんだけど、やってみる? できるかな?」
その生徒は、首を縦に振り、「はい、やります」と答えました。
そして、ラインカーの使い方を教わり、一人でしっかりと2コート分のラインを引き終えました。
こんな日常の学校風景から、わたしが思うことは、生徒が自ら発した言葉が持つ意味です。
人は自分の考えを言葉にするとき、その声を自分で聞き、自分の意思を固めます。
この場合は、「はい、やります」と自分で話したことが、ライン引きを最後までやりとげる力になっています。
自分の考えや思いを言葉にしたとき、それを自分の耳で聞きながら話して、自分の決めたことや思い・考えを理解して、気がつくのです。
人は、ふだん自分の気持ちに全部気づいているのではないのです。
あわただしく過ぎる日々の生活のなかで、私たちは自分が感じていることに気づかずに時間を過ごしていることが多いものです。
だから、話す機会や時間をもった人は、話しながら「自分がこう思っているのか」に気がついたり、「はい」と答えたということは、自分はやらねばならないし、やりきれるんだという意識をもつのです。
これが、生徒が言葉にして答えたり、話したりすることの効果です。
思っているだけではなく、言葉にすることで、人は自分の考えや思いにあらためて気がつきます。
だから、話す機会や時間をもった人は、話しながら「自分がこう思っているのか」に気がついたり、「はい」と答えたということは、自分はやらねばならないし、やりきれるんだという意識をもつのです。
これが、生徒が言葉にして答えたり、話したりすることの効果です。
思っているだけではなく、言葉にすることで、人は自分の考えや思いにあらためて気がつきます。
人に命令されたり、指示されるのではなく、自分で発した言葉ということで、その責任を引き受けていく覚悟や自覚が生まれるのです。
私たちは大人であろうと、子どもであろうと、「自分の声を聴く」必要があるのです。
私たちは大人であろうと、子どもであろうと、「自分の声を聴く」必要があるのです。
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