
学校の教師の中には、何十年も前に学級担任をしていたクラスの児童生徒の名前を一人ひとり言うことができる人がいます。
そして、卒業しておっちゃん・おばちゃんになっている教え子に同窓会で、または道で出会ったとき、その名前を言うことができるのです。
そういうわたしも30年ほど前に担任していた卒業生に出会っても、その容貌は変わっていても、どこか残っている面影をたよりに、「〇〇さんだったね」と言います。
相手は、もと担任がよく覚えてくれていることに驚くと同時に喜ぶのです。
退職しても、もと教え子を覚えているもと先生はそれで達成感・存在感を得るのです。
それは、おそらく自分はいまも「生きている」であり、「生きて居る(いる)」のです。
さらに、「生きて居る(いる)」は「生きて要る(いる)」のです。
こんなに年数がたっても、また退職して高齢になり、かりに80歳をこえても、これだけ教え子のことは覚えている。
いまも「教師」であり、あなたにとっては意味のある人であることで、必要な人だと思いたいのです。
ある意味で、少し悲しくも思われる教師の性(さが)なのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます