箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

生きづらさを感じない社会

2020年09月21日 20時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルスに感染した人が謝罪メッセージを発したり、謝ることについて、その是非が問題となっています。

自分が感染したことで、仕事を休むことになり、誰かが自分の仕事をやってくれて申し訳ない。周りの人にも感染のリスクを与えることになる。

そういう意味で、自分が迷惑をかけることに対して謝るという考え方をすれば、謝りたいという気持ちは理解できます。

一方で、いまや感染経路がわからずに、感染した人がけけっこういます。
できるだけ、三密を避け、マスクをしていた人でも感染する人がいます。

つまり、新型コロナウイルスには、気をつけていても、誰もが感染する可能性があります。

そうなると、病気になることを謝る必要はないという論理・考えになります。


あるいは、新型コロナウイルス感染差別という観点で見るならば、立場的には感染した人は差別を受ける側の「被害者」になりうるのです。

この社会のなかで、差別の被害者が、他者に謝ることはあり得ないことです。
このような論理が成り立ちます。


この問題は、一概に、「謝るべき」/「謝るべきでない」と二分法で分けられない問題です。

そもそも人は、理屈では納得できても、感情では納得できないことも多いものです。

だから、「謝りたい」と感じるのも、「謝る必要はない」と考えるも、ケース・バイ・ケースであるし、人それぞれだと私は思います。


それよりも、私は新型コロナウイルス感染が「加害・被害」の立場という文脈だけで語られることこそが問題であると考えます。

それにより感染した人が、「他人にうつす存在」として加害者のように周りから攻撃されることになっているのです。

そうなると、「病気もこわいけど、世間がこわい」という恐怖になってしまいます。

「職場の感染者第1号はいやだ」とも思ってしまいます。

でも、そんな職場環境や社会は、どの人にとっても働きにくいし、生きづらさを感じるものです。

「そう、検査で陽性だったのね。早く元気になってね、仕事のことは心配しないで」

このように、相手を受け入れ、自分も周りから受け入れられるグループ・職場・社会であることが、誰にとっても生きやすいのだと思います。


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