箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

コミニケーション力の呪縛

2020年01月20日 07時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ








中学生の高校入試のための自己申告書を読むと、グローバル時代の子どもらしく、高校で英語を使った「コミュニケーション力をつけたい」という抱負を書いている生徒が、けっこうたくさんいます。

また、最近問題になった大学入試センター試験での外部の民間テストを導入しようとした目的の一つに「コミュニケーション力の向上」がありました。

この制度は、もともとは2013年に、経済界からの要請と教育再生会議からの提案を受け、文部科学省が制度を設計しました。

そして、その制度は大学入試に民間の「聞く、話す、読む、書く」の英語4技能テストを盛り込めば、学生の4技能とコミニケーション力を高める学校での教育が行われるようになるだろうという見込みで考案されたのでした。

もっと学校(中学、高校)の現場の声を聞くべきなのに、経済界や政界が主導で進めてきたことが、この制度破綻の根本にあります。

英語を使うコミニケーション力の向上は、たしかにこれからの時代を生きる若い人にとって必要です。

しかし、それを学校での英語学習の目的にすることはできないと私は考えています。

グローバル社会、国際社会で対等に外国人とつきあうためには、対等な人間関係をもとに、その人がどんな信念をもち、どれほどの教養をもって話しているかという、話の中身が必須となるからです。

つまり、どのように(How)話すかではなく、なにを(What)話すかが求められるのです。

高校では、まだその信念や教養の基礎を積み上げる時期でないかと、私は考えます。

その意味で、昨年度、高校で英語の学習でコミュニケーション力をつけると書いていた中学生には、私のこの考えにたったアドバイスをしておきました。

日本の企業の採用面接でも、英語に限らず日本語のコミュニケーション力は、採用のための強みにはならないでしょう。

企業側は、コミュニケーション力は身につけていて当たり前と考えます。それにプラスしてどんな力をもっているかを、採用条件にするでしょう。

外国人との会話でも、かりに英語のイントネーションが少しおかしかったり、なまりがあったとしても、少しぐらい流暢でなくても、英語そのものは言語であり、それ以上でも、それ以下でもありません。

顔をつきあわせて、濃い内容の話ができると、国籍や人種の違いをこえてお互いを尊重しあえると思います。

流行のように使われる「コミュニケーション力」という言葉、そしてそのとらわれから、私たちは抜け出したほうがいいと思います。






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