最近のスマホは、動画を見ようと思うと、普通は広告がしばらく続くことがあります。
けっこうな時間続きますが、設定上しばらくの間広告を見ないと次に進めないので見ます。
すると、なかにはけっこうインパクトの大きさを狙った内容の広告もあります。
ユーザーが広告を見ていることで収益をあげるプラットフォーム企業はこのようにユーザーを引きとめます。
本人が好もうが、好まないにかかわらず、同じ傾向の情報が次々に出てきます。
これを、いわゆる「フィルターバブル」というそうです。
そこで、ふと思うのですが、自分で情報受信を取捨選択できないことを突き詰めていくとら人は分断される方向に向くのではないでしょうか。
学校教育の授業では、人は自分で考え、自分で判断して、自分の意思で行動することを子どもたちに求めています。
ところが、デジタル全盛のいまの社会では、自分で選んだつもりなのに、じつは知らない人から誘導されていることにもなりかねないと危惧するのです。
また、世界的にみれば、権威のある人が個人のスマホなどの端末から、情報を抜き取ろうとするニュースが報道されました。
これは、「監視社会」のはじまりと言えるのでないでしょうか。
被害に遭った人の生活状況や暮らしぶりを第三者が知ることができる。
しかし、社会のデジタル化が急激に進む今、もう後戻りはできません。
ネットやスマホがない生活は、とくに今の児童生徒の年齢層の人たちにとっては考えられないことでしょう。
かえってコミュニケーションやビジネスを広がる可能性ももっています。
だとするならば、ネットやスマホとうまく付き合っていく習慣づくりのための学習が学校教育でも取り組む現代的課題だと言えるでしょう。
あわせて、コンピュータが情報処理をする手順を知ったり、個人の情報がどう扱われているかを知ることができる対策が必要になります。
ふと気がついたときには、まわりからがんじがらめにされ、身動きできない不自由な世界にいることに、あとから気がつくことになります。
それが行き着くところは、誰にとっても不幸な戦争への突入でないかまで心配します。
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