学校は再開しましたが、引き続き感染防止に努めなければなりません。
密にならないように、間隔を開けよう。
手洗いをしっかりしよう。
マスクをつけよう。
消毒にも精を出す。
給食のとき、一度食器に盛ったものは、食缶に戻さない。
トイレの便器の清掃は、教職員がやる。
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このようにして感染リスクは下げなければなりません。
それは、その通りなのですが、はっきりしているのは、リスクがゼロになることはないのです。
だから、感染防止を「徹底するのだ」としてしまうと、学校という空間は、児童生徒にとっても、教職員にとっても「窮屈な場」になってしまいます。
すると、考え方や行動も窮屈になり、考えがどうしても狭くなってしまいます。大切なのは、子どもが自分で考え、行動できるようになることです。
なぜマスクをするのか。ウイルスが口や鼻を通して体の中に入るのを防ぐためなのだ。
このようなことを、児童生徒が学び、理解して、自分で必要だと納得して、実践するのです。
学校では、すべて学ぶことばかりであるべきです。
それを、「これをすべき、あれをすべき」と感染防止策を「徹底しよう」とする、正解を用意して、「与えてばかり」いると、子どもも学ばないし、教職員も自分で考えなくなってしまいます。
休校になり、授業時間が失われました。そこで、今回オンライン授業が公立小中学校でも行われました。それはもちろん必要なことでした。今後も、第二波に備えて準備が必要です。
ただ、これも、よく考えてみると、けっきょくは子どもに「与えて」いるのです。子どもたちが自分で意欲を高め、考えて、計画をある程度立てて学ぶという授業とは遠いものになっていたようです。
今の学校の実践課題である「主体的で、対話的で、深い学びの授業」には、だいぶん離れたものでした。
これからのオンライン授業は、問いを出し、子どもに正解を求めるという段階から、オンラインを通して、子どもに問い、子どもが考え、自分なりの答えをだすという授業に変わっていくべきだと思います。
今回の全国一斉の休校措置で見えてきたものがあります。学校というものが社会にとってやっぱり必要だと思った人がいます。
「子どもが学校に行ってくれるからこそ、親は(安心して)働きに出れるのよ」と、あらためて思った人が多くいたことでしょう。
その一方で、「学校がなくても、学習しようとすれば、自分で学習できるのだ」と感じた人もいるのではないでしょうか。
その一方で、「学校がなくても、学習しようとすれば、自分で学習できるのだ」と感じた人もいるのではないでしょうか。
大ざっぱにいえば、このどちらかに大別できるのではないかと思います。その人の立場によって考えは分かれるでしょうが、学校の役割について、あらためて考える必要はあるかと思います。
ただ一つだけ言えるのは、次の判断です。
学校は「勉強」する場であると考えると、「教師が教える」ので、オンラインでも十分だ。
学校は「学習」する場であると考えると、「子どもが学ぶ」ので、学校は必要だ。
ただし、現場では、そのような二分法では回らないのが実情です。教師が教えることも必要であり、ただそれオンリーではなく、学ぶ機会や活動も授業の中で確保されていることが必要というのが、実際的な今後の学校の在り方です。
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