箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

裏切ったらダメ

2019年11月15日 12時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ







日々、中学校生活を送る中学生ですが、同じ学校生活を送るなら、信頼できる教師がいた方がいいのです。

生徒が教師に信頼感を寄せるには、その前提条件として、教師という大人に対して期待していることが必要だと、前に述べました。(11月8日)

他にもあります。

生徒が教師には信頼感をもつには、教師はぜったいに生徒を裏切らないという自覚と実行力がいります。

裏切りは、相手から行われる行為です。

裏切られた側は大きく傷つきます。

誰もが傷つきたくありません。

だから、もし、たくさん裏切られた経験をすると、誰も信じないようになります。



浜崎あゆみの曲「Moments」の中に
こんな歌詞がありました。

「君が絶望という 名の淵に立たされ そこで見た景色はどんなものだったろう

行き場所を失くして さまよっている むき出しの心が 触れるのを恐れて 鋭い刺はり巡らせる
・・・」

人から裏切られると、鎧をつけ、誰も信じない、誰も好きにならないという生き方をしようとする人もいます。

そういう生徒に出会ったこともあります。

ただ、そのような生徒でも、心の奥底の深層心理では、人と信じ合いたいと、願っていることが多く、人と出会い直すことで、絶望が希望に変わることもあります。

その出会い直しは、教育の中で行われることがあります。

自身の経験からも思いますが、とにかく、教師は生徒をぜったい裏切らないことを肝に銘じ、振る舞うことが不可欠です。


よく話しかけてくれる先生

2019年11月14日 05時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ











ふだんから生徒に笑顔で応対して、話しかける先生がいます。

そんな先生は、体の調子はどうかとか、家で何かあったのかとか、習いごとはどうかとか、いわゆる世間話を聞いてくれる先生のクラスは、居心地がいいクラスです。

そういった先生なら、体調が良くないときには、「先生、・・・」と訴えやすいですし、先生にとっても、ふだんからコミュニケーションを生徒ととっているので、生徒の体調不良を早くキャッチしやすくなります。

つまり、生徒は、落ち着いて、安心しながら、学校生活を送りやすいのです。

一方、そのようなコミュニケーションをふだんから交わしていなければ、体の具合が悪くても、先生に言い出しにくいものです。生徒はよほど悪くなって、「もうダメ」となってから言ってくるので、先生も早期に生徒の体調不良を知ることが難しくなります。

このように、どのように生徒から話を聞くかによって、教師と生徒の信頼関係はちがってきます。

また、経験上思うことですが、生徒に自分の経験や考えを話す先生は、生徒からの信頼を集めやすいことは、たしかなようです。

自分の失敗談やこうしてがんばったという話、最近の出来事についてどう考えているかを語るのです。

生徒と教師の年齢は、10年以上離れており、中には40年近く離れている場合もあります。年期の入った先生が語ると、「先生、それ昭和の話?」と生徒は言いながらも、けっこう聞くものです。

これは、教師の方から「自分を開いている」(自己開示)のです。生徒にすれば、先生というのはどういう人かがわかるので、親近感が増します。

一方、あまり生徒に自己開示しない教師は、生徒にとっていつまでも「知らない人」、「得体のしれない人」なのです。

自己開示して、自分のことをいろいろと話してくれる教師がいれば、生徒は聞いた話を自分と重ねて、「わたしの場合は・・・」で、時代を越えて、「ここはいっしょだ」という共通点を見つけたり、「わたしは先生とはちがっていて、・・・」というように思います。

そして、生徒によく話しかける先生は、特定の生徒だけでなく、誰にも公平に話しかけます。

無口な子、おとなしい子でも、にぎやかでおしゃべりな子と同じだけの思いと願いをもって、学校生活を送っています。

どの生徒とも、たわいもない会話ができる教師のクラスは、安定していて、みんなにとって過ごしやすいクラスです。

「どの子に対しても先生は同じように接してくれる。どの子も大事にしてくれる」と感じる生徒が多いほど、生徒同士の仲間関係も仲良くなります。生徒間に不公平感がないからです。

「わたしのことを大事にしてくれるのだから、あの先生なあの子のことも大事にしている」と、感じて生徒同士で不公平感が生まれないのです。

志して教師になった人なら、こんな当たり前のことができる人であってほしいと思います。


夢のありか

2019年11月13日 07時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ





中学3年生は、今頃から「進路懇談」が始まり、志望校を考える時期に入ります。

中学生が夢や目標をもつことは大切です。

夢や目標を実現するためにがんばります。

すると、いいところまてたどりつきます。

しかし、ゴールまでは、なかなかたどり着かないことが多いもの。



高校受験で希望校をきめました。

合格のための学習に励みます。

すると、成績も上がってきました。

ただ、どのあたりまで自分が到達しているかは、客観的には見えにくいのです。

そこで、どうしても合格するという強い意志が必要になります。

不合格になるのはイヤだしということで、夢を諦めて、受かりやすい学校を受験してしまう生徒がいます。


夢は手を伸ばした1ミリ先にあるのです。

自分がどの点にまでたどり着いているかを先生に尋ね、なんとしてでも合格するという意志をもって、学習に励んほしいと思います。



「よりどころ」が中学生を育む

2019年11月12日 07時02分00秒 | 教育・子育てあれこれ









こんな言葉があります。

「誕生日は祝わなくてもいい。粗末な食事でいい。この日こそは子どもが母をもっとも苦しめた日だから」

多かれ少なかれ、母親はわが子を苦労して、たいへん苦しんで、苦痛に耐え出産したのです。

いま、中学生になっている子どもの中には、たいへんな難産で産まれてきた場合もあったでしょう。

最近の映画、「ヒキタさん、ご懐妊ですよ」では、なかなか赤ちゃんが生まれない夫婦がやっと子どもを授かった喜びを描きました。

または、子宮外妊娠などによって、母子のどちらもが命の危険がある中、やっとつないだいのちをもつ子どもがいます。



さて、子どもの成長を考えたとき、親子のふれあいが大切なのはもちろんです。

しかし、忙しい現代社会では、実際に親と子がふれあう時間の確保は、かなり厳しいと言わざるをえません。

夕食を家族全員がそろって食べるという子は非常に少ないのです。

中学生には学習塾通いがある場合が多いのです。

お父さんやお母さんが仕事で帰宅していないという事情もあるでしょう。

なかなか、家族全員がそろわないというなかで、中学生は家庭生活を送っています。



ただし、こういった事情はあっても、子どもはけっして親への期待をなくしていたり、親が子どもへの期待をなくしているわけではないのです。

子と親のふれあいにより、生き方や社会というものを、子どもが親から学びとることはじっさいにあるのです。

そういった点で見ていくと、わが子を産んだ時の母親のたいへんさを子どもに語るということは、中学生が自分の存在の大切さを実感する機会となります。

「こんなに苦労して、わたしを産んでくれたのだから、心配はかけられない」と新たな思いになることになります。

あるいは、幼い頃は強度のアレルギー体質で、親は血がにじむような苦労をして、食事をコントロールした。ほとんど野菜だけ食べて中学生になった、救急で親が何度も病院へ連れて行ってくれたという生い立ちを語ってくれた生徒もいました。


子どもが非行や不適応など問題をかかえる場合、よく親が過保護だとか過干渉とか、放任しているからと言われる場合があります。

しかし、そういうことよりも、それらの子どもにとっては親の存在感が薄い場合が多いようです。

親の存在感とは、子どもが生きるときの「よりどころ」です。これは、接する時間が短いとか長いということとは無関係です。

また、事情により、親がひとりの場合、あるいは両親がおらず、児童養護施設などで暮らす子どもにとっては、親にかわる大人や集団が親がわりとして「よりどころ」になることができます。



思春期の中学生とは、自分が生まれ変わる時期であり、自分を変えるチャンスになる時期です。

自分の過去とか父母の過去と向き合い、自分の未来を生きるための「よりどころ」を求める時期です。

大人の切なる願いと、育てるというたいへんな努力があって、自分はいまここに生きているということを、子どもに知らせることができるのです。

どうか、中学生をお持ちの親御さんは、子どもの「よりどころ」となってもらえることを、私は願ってやみません。

なぜ児童虐待が起きるのか②

2019年11月11日 06時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ







前回では、夫婦による共同の子育てが難しいとき、また、親が子ども目線になれないことが、児童虐待を誘発しやすいことに触れました。


さらに、児童虐待が起きる背景には、親自身に自信がないことも関係します。

自信がないので、子どもが思い通りにならないと、子どもから「ばかにされている」、「なめられている」という気持ちになりかねません。

いつ殴られるかわからないのでおびえて、子どもが親の顔色をうかがっていることがあります。

すると、「その目つきは何だ。オレに因縁をつけているのか」と言って怒る例があると報道されている通りです。

この意味で、将来親になる人に対して小中学校時代に、いかに自分への自信を植えつけていくかが問われるのであり、学校の役割もあらためて大切だと、わたしは思います。

学生時代にずっと劣等感を感じてきた人は、大人になると、わが子に「こんな小さいのに、こんな子までバカにするのか」という気持ちが強くなり、手が出ます。

でも、「泣く子どもには勝てませんわ」というように、子育ては子どもに対して親が「負け」を認めることがしょっちゅうです。

そのとき、パートナーから「たいへんだね」「いっしょに育てていこう」という言葉があれば、母親はどれだけ救われた気持ちになるでしょうか。

パートナーだけでなく、頼ることのできる親や親せき、愚痴を聞いたり助けたりしてくれる地域の友だち、職場の同僚や上司がいてくれれば、がんばって育てていこう、という気持ちが生まれます。

子育てをする親の周りに、サポートしてくれる子育て支援ボランティアなどの人間関係が広がっていくことで、親はがんばることができます。

ですから、中学生が学習の一環で子育て体験をすることも、将来のために大いに意味があるのです。
 


なぜ児童虐待が起きるのか①

2019年11月10日 10時42分00秒 | 教育・子育てあれこれ








九州でまた、児童虐待が報道されました。

みなさんは、愛されてかわいい子どもに、どうしてあんなひどいことができるのかと疑問をもたれる場合も多いでしょう。

そこで、私が昨年教職員に配った校長通信の抜粋から、児童虐待が起きるメカニズムを説明します。

父親と母親は、そもそも別の生育環境で育ち、ちがう育てられ方をしてきて大人になり、夫婦になりました。そして、子どもが生まれて親になります。

お父さんは、「小さいとき、こう育てられた」
お母さんは、「こういうときに親はこうしてくれたことを覚えている」

こんなやりとりして、または覚えていることを念頭に入れて、わが子とのかかわり方を見つけていきます。

このように、夫婦が共同で子育てを模索していくのです。

しかし、児童虐待が起こる家庭は、夫婦の共同関係がない場合が多いようです。

母親が父親に服従するような夫婦関係になっていると、父親がわが子を虐待したとき母親は止めることができません。


 
さらに、児童虐待は、親が「子ども目線」になれないことから起こります。

ふつう親は「これは子どもが口に入れたらだめだから、しまっておきましょう」など、子どもが安心して失敗できる環境をつくります。

このように、子ども目線になって、わが子と接します。

「子どもがどこまでできるか」を知っているのです。

だから、子どもがまちがいをしても「よっしゃ、よっしゃ」と許すことができるのです。

「しかたなかったね、まだわからないもの」と感じて、怒りは出てきません。

たとえば、1歳の子がおもらしをしたのと、5歳の子がほかの遊びに夢中になっておもらしをしたのとでは、ふつう親の怒り具合は違います。

ところが、虐待する親は子ども目線になれないので、子どものありのままの姿とは違う理想をイメージしています。

だから、「赤ちゃんが夜泣きする」、「子どもがおもらしをする」「子どもが飲み物をこぼす」といって怒ります。

「子どもは大人の思い通りになる生き物だ」という間違った思い込みで子育てを始めると、子どもの未熟さが、親の怒りを増幅させます。

このような事情で虐待が起きます。

(次回に続く)


子とともに生きる

2019年11月09日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ







過去をふりかえり、過去のできごとを現在の時点で意味づけることができるようになる。

それが、中学生以上の年齢になるとできるようになります。

過去の自分を、今の時点で、あたかも他人が見ているかのように客観視できるようになるのです。

「あの頃は悲しかったなあ」「あのできごとは辛かったなあ」という思い出だけでなく、てきごとに含まれるものごとの諸関係を冷静にとらえなおす。

このとき、その子にはひとまわり大きくなったという人格的な成長をみることができます。

悲しみやイヤな思い出という感情に浸りきっていない、屈託のない前に向いている人の能動性を見ることができます。


ある女子生徒は、お父さんの仕事の関係で、箕面から関東に小学生のとき引っ越しました。

しかし、関東でお父さんは、不測にも亡くなられました。

その時のショックで、彼女は学校に行けなくなりました。

箕面に戻ったら、学校に行けるかもしれない。

そう思い、中学から再び箕面の中学校に通いました。

でも、中学生になっても、時々学校には登校しましたが、不登校が続きました。

学校に行けるかと思ったが、行けなかった。落ち込む時期が続きました。

家で、裁縫をしたりして1.2年生をすごしました。

お母さんもどれほど心配したことでしょう。

転機は3年生のときにやってきました。3年の新しいクラスになじむことができ、修学旅行にも行けました。

その後、毎日登校することができました。

秋になって、その子は自らの過去を客観視しました。

父親を亡くした衝撃は相当なものだったでしょう。想像するに、その悲しみは余りあります。

そして、学校に行きたくてもいけないという悔しさを体験しながらも、その悲しみとつきあい、抱えながらも、次の一歩へと踏み出したのでした。

人は本来、挫折や失敗から立ち直るレジリエンス(復原力)をもっているのです。


言えることは、子どもの成長を考えるとき、
① その子の過去と関連づけてみるということ。

② 将来的には、その子はずっとそのまま大人になるのではなく、変わっていくものと考える。

この2つの見方が必要です。

中学生になったら、親は子どもが自分を見つめ、自ら変わることを望んで、見守ることが必要です。

わが子のために生きる親から、わが子と共に生きる親へと変わっていくのです。

(写真の人物と本文の内容は関係ありませ。)



信頼感につながる「期待」

2019年11月08日 11時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ







教育はもちろん教職員と生徒の信頼関係の上に成り立ちます。

では、信頼感はどんな場合に生まれるのでしょうか。

尊敬できる大人である。

子どもの話を親身になって聞いてくれる。

相談にのってくれ、親身になって考えてくれる。


いろいろと言えるでしょうが、ここでは信頼感とは、まず前提として相手に期待しているということをあげることができると思います。

子どもの側からすれば、自分より経験がたくさんで、頼りにできる存在として教員をとらえます。

大人の側からすれば、子どもが伸びる可能性を信じていることでしょうか。

とりわけ、子どもにとっては、その子が幼いときには、教員は理想として、見習うべき大人として、子どもの前に存在します。


ところが、現実には、大人はそんな理想的なものではないのです。

大人だって間違いますし、思い通りにいかないこともあり、落ち込むことも取り乱すこともあります。

子どもの手本にならない言動をすることもあります。

思春期になってその事実に気がついた子どもは、教師や親といった自分に関係する大人が信頼に値する人かどうかを試そうとします。

同時に、どんな場合でも動ずることなく、自分を受け止めてくれる人かどうかを確かめたいという心理が働きます。

こういった反抗期の心理は、思春期の特徴ですが、最近では思春期以前の児童期から起こっているようです。

ともあれ、子どもの期待に応えるには、大人は毅然としながら、かつ、緩やかな寛容な態度で思春期の子を受け入れ認めることが、子どもの不安をやわらげます。

そして、期待値があがります。信頼感を高めることになるのは間違いありません。




いい授業をしたい

2019年11月07日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ






わたしは、4月から箕面市の教育専門員として、市内8校の中学校を1日1校の割合で、まわっています。

教職経験の少ない、おもに教諭になって2年目、3年目の人と今年から箕面市の中学校に勤務している講師の教員の授業をみて、指導する役割です。

指導の対象になる人の教科は、9教科全部に広がります。

中学校には、部活もありますが、1日のうちでも、教員は7時間ほどは授業に従事します。

ですから、経験の少ない教員が授業をちゃんとできるためのサポートは必要です。



さて、教員に必要な資質とは何でしょうか。

たくさんあります。

生徒を理解できる。

人間味のある人。

生徒の心情に寄り添うことのできる。

部活を指導できる。

いろいろありますが、とくに授業に関して言うなら、いい授業ができるように、授業について日々研修を積む人であると考えています。

親御さんが中学生のとき受けられた授業と今の授業は大きく違っているのが、いまの授業です。

社会や子どもを取り巻く環境の変化が大きいので、「私の授業はこれで完成しました」ということは、ベテランでもありえないのです。

日々、授業の準備にいそしみ、教材をつくり、授業技術を磨く人にならないと、教員としての役割を果たすことができません。

これを学校関係者は、「授業研究」とよんでいます。

見たいのは、授業での子どもの笑顔です。

深い学びをして、学習を好きになる子を育てたい。

こう考え、時間をかけても、日々授業準備をしている若い教員が箕面市の中学校にもいます。

そんな教員をサポートすることが、自分のミッションだと感じています。

易から難へ、段階を踏んで活動を組み立てていく若い授業の実践者としての教員がいます。

子どもに、多彩な活動を準備して、深く子どもに考えさせる授業をする教員がいます。

子どもに「そうか、わかった!」とつぶやかせる教員がいます。

集団やグループが生徒個人の力を引き上げる活動を行わせる教員がいます。

わたしは、そんな教員と授業後に振り返って話し合うとき、まっすぐな気持ちで授業に向き合っている態度に感心して、少しでも力になりたいと思うのです。

こころと体を温める

2019年11月06日 18時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ








10月30日にリリースしたブログ「人生は秋の落ち葉」に、読んでくださった方から、「続きを希望する」というメッセージをもらいましたので、今回は続きです。


《桜の紅葉》

紅葉といえば、モミジを思いつく人が多いでしょう。

しかし、秋に真っ先に色づく木が、桜です。

8月の終わりには葉が黄色になり、その後オレンジ色になり、11月のはじめには、赤色となります。

桜の紅葉は話題に上がることも少ないです。

そして、人知れず紅葉を終えます。

目立たなくとも、しっかりと着実に色づき、落葉を迎えます。

そのような生き方に、私は惹かれます。

中学生にも、困難なことにも耐え、努力を重ね、自分の生き方を着実に色付けてほしいと願います。

間もなくやってくる冬は、色の寂しい「色枯れ」の季節です。

桜の紅葉の色の豊かさは、冬を迎える前に、私たちがたっぷりと心と身体を温めておくという自然からの贈り物です。


「いま」しか見えない

2019年11月05日 07時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ








不登校の生徒のなかには、学校で嫌な思いをしたとか、いじめを受けたという明確な理由がなく、学校に行けなくなる子もいます。

不登校の子にとって、家族や先生などのおとなの言葉は重みがあります。

子どもが学校に行かなくなると、親は当然ですが、焦ります。

つい、こんな言葉を発していまいます。

「学校に行くのがふつうでしょ。なぜふつうのことができないの」

「あなたのことを思って言っているのよ」

「この先どうするの」

しかし、明確な理由や原因がなく、学校に行けない子にとって、これらの言葉は、本人とっては、堪える一言です。

だって、本人にしても、学校に行きたいのに行けないことに、「ふつう」でないことに悶々としているのです。

「これから先どうするの」と言われたって、本人には「今」しかないのです。 

「今」しか見えていないときに、過去も将来も見えてきません。

「わたしはずっとこのままかもしれない」という不安な気待ちでいることが多いのです。

だから、おとなは焦らず、現状を受け入れ、いま学校に行けない状態を認めることが必要なのです。

親が焦らず、「いま、この子はこういう状況なのだ」と思うと、子どもの気持ちは落ち着くことが多いものです。

そして、不登校を認めたうえで、たとえ1時間だけでも登校できないかとか、家に友だちとか先生が来てくれたら会ってみようかなど、いま少しでもできること、前に進めることがないかを考えていくのが望ましいと思います。

(本文の内容と写真の人物は、関係がありません。)





中2の「ハードル」

2019年11月04日 12時38分00秒 | 教育・子育てあれこれ








中学2年は「中だるみ」の学年と言われることがあります。中学1年生は入学して中学校生活に慣れるということで、一定の緊張感があります。

中学3年生は最高学年としての自覚が高まり、なんといっても高校受験の準備もあり、目標をもって学校生活を過ごします。

その両方に挟まれる中学2年というのは、中学生活への慣れも働き、目標を見失う子も出やすい学年です。

学習もかなり難しくなります。

友人関係でも「一人ぼっち」にはなりたくなくて、友だちにあわせて、けっこう気を遣い生活します。

表面上みんなにあわせて、ダラダラ過ごすこともなきにしもあらずです。

こんな子どもをみていると、親はつい指示をしたり命令をしたり、きつい口調になりがちです。

しかし、この時期、そのような子どもへの接し方は、適切ではありません。


中学2年の時期は、中学生活の中では、ある意味で超えなければならないハードルのようなものです。

ふだん黙っている子が、ときとして悩みを語りだす、あるいは真剣に問いかけてくることもあります。

そのようなとき、抑えつけたり、「何を言ってるの、この子ったら」とまじめにとりあわないと、子どもはいっそう黙り込みます。

「わかってくれないんだ」とあきらめてしまうことにもなります。

親ができるのは、子どものよい点を認め、年齢相応の自立したいというこころを尊重することです。

あたたかい態度で、一人の人間として、小学生とはちがう高い要求を子どもに求めていきます。

大人として扱ってほしい。けれど一人では自分が思うほどはうまくいかないというもどかしさを抱えています。

思い通りにいかないという弱点につけこんで、相手をやりこめるということだけは親として避けたいところです。

「中だるみ」の時期にあり、自分のもどかしさを感じて、友だちと「群れている」子どもには、上質の文化に触れさせるのが、自立のこころを育てるのにいいようです。

たとえば、視野を広げるとか、大自然の雄大さを体験させるとか、新聞の社会面の記事をとりあげて語り合う、家事を分けてお手伝いをするとかです。

箕面市の中学生が今年の夏休みに体験したことで、次のように書いていました。

「私は夏休みに、雪の残る日本アルプスに登りました。途中からアイゼンをつけて雪の山を登りました。
登るのはたいへんだったけど、下りていくときには高山植物がいっぱい咲いていて、きれいだったのでゆっくりと高山植物を見ながら下山しました」


中学2年生は、子ども扱いしてはいけません。大人になる節目の時期であり、こころやからだの変化に自らが戸惑っている時期にあります。

親がちゃんと子どもに大人としての要求もして、納得させるためには、「わたしの親は、わたしをすこしずつ大人扱いしてくれている」という信頼感を抱かせていくことだと考えます。



対面して言葉を交わすのが学校

2019年11月03日 09時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ







学校には多くの生徒が通ってきます。

当然ながら、日々多くの言葉が交わされます。

生徒どうしの会話、上級生と後輩生徒の会話、教職員と生徒の会話などです。

その中で、いま、とくに教職員と生徒との会話を取り上げたいと思います。

メールやSNSが全盛のいま、意思疎通を文字による情報にたよることが多くあります。

だから対面して対話する場面を大切にしたいのですが、問題となるのはその質です。

たわいもない会話ならともかく、生徒にとっての大事な会話をするときは、教職員は血の通った言葉で話さなければならないのです。

また、生徒の方も話される言葉に情緒を感じることができるかが問われます。

このことは、何も目新しいことではありません。

以前から学校教育で大事にしてきたことですが、文字による情報伝達の度合いが大きくなり、それも短い簡単な文字のやりとりになりがちな今日、対面の会話の質に注目したいのです。

要は、人間らしい営みの練習を積む経験を学校で実現することが必要であるということです。

誰が雑草ときめるのか

2019年11月02日 14時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ








私たちが庭や野原で見つける雑草。

学校ならグランドに生えてきます。雑草を刈ったり、抜く作業が必要になります。

箕面市の小学校では、校庭の芝生化事業で、芝生が育っている学校が多くあります。
芝生の中には、雑草が生えてくるので、それを除去する必要があります。

私自身も自宅の庭に雑草が生えてくるので抜きます。とくに春、夏は雨が降るたびに、雑草は大きくなるので、草引きもけっこうたいへんです。

しかし、草を引きながらはたと考えました。人間の側からすれば、映えてくる草は雑草であるけど、どんな草にも名前があり、それぞれの草が自分の育つ場所を見つけて、誇らしげにいのちを営んでいるのです。

人間側の一方的な見方や考え方で、勝手に雑草と決めつけているのです。

どんな植物にも名前といのちがあるように、人間もそれぞれ、名前をもち、命をもつことを、「雑草」は私たちに教えてくれます。

雑草を抜くときには、せめて「人の勝手ですまないね。引かせてもらうよ」という気持ちで、作業をしようと思いました。

親と思春期の子のつながり

2019年11月01日 09時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ





おそらく東日本大地震以降、よく使われるようになったと、私が考えている言葉が二つあります。

その言葉とは「想定外」と「絆」です。

「想定外」は当時、日本の政権をとっていた民主党の枝野幸男官房長官が、福島第1原発の1号機と3号機が爆発した際に、会見で「ただちに人体や健康に影響を及ぼすことはない」という説明をしたあたりに使われだしたと記憶しています。

また、東日本大震災では、被災者を支援する人びとのつながり表現するとき、「絆」という言葉がキャッチフレーズになり、一挙に世間で使われだすようになりました。

今回のブログでは、「想定外」ではなく、後者の「絆」について書きます。

以前のブログで、「絆」とは元来、平安時代には牛や馬の家畜をつなぎとめるための縄であり、強すぎる絆は相手を縛りつけ、束縛するマイナス面もあることに、私は触れました。

親子関係の絆についても、親と子がつながることは必要だが、それが強すぎると親は子を束縛することになり、子育ての面では子どもの自立を妨げるのでよくないということを書きました。

そのとおりです。

しかし、そんなに束縛するものなら、親と子の絆がいらないという考えになってしまうかもしれませんが、親子の絆はやはり必要です。

そこで、絆を考えるときには、それが強いか弱いかではなく、深いか浅いかという視点に目を向けたいと思います。



深いところでつながるというのは、ふだんいいかげんに見える親でも、親と子が細々とでもどこかでつながっているという感覚です。

子どものことをほったらかしにしている、ずいぶんと適当な親だと、一見見える親子関係の家庭があります。

ところが、子どもが頼ってきたときには、「うるさい!」ではなく、「どうしたの?」と応じるような親子関係のある家庭です。

絆をひもにたとえれば、細長いひもだが、たぐっていけば、親と子がちゃんとつながっている状態をイメージしてもらえればいいでしょう。

子どもの帰宅が遅いと怒鳴り散らす親は、ひもが短いので、すぐ反応して「あかん」とか「遊んだらダメ」と激怒します。「直下型」の態度です。

しかし、深い絆で子どもとつながっている親は、子どもを信頼しているので、「なんで遅くなったの」と聞きます。

そして、「へー、そんなことをやってたんか」、「そりゃ、おもしろいんやろな」「そうか、そうか」となります。

とこらが、親が主導権をもっている親子関係ならば、「叱らなければならない」となり、ガーという勢いで子どもに意見をします。

そんな、ゆるゆるでいいのか。子どもの好きにさせて。

いいのです。深いところで親子の関係がつながっていれば、子どもがどこかへ行ってしまったりはしません。

だって、ひもをたどっていけばちゃんと親と子は結ばれているからです。

思春期の子には、このようにゆるくて、細長い、深いところでつながっている絆が必要なのです。

子どもの方も束縛されないので、居心地がいいはずです。そして、何かあったときには、親を頼ってきます。

それでも、親子関係がそんなゆるゆるで、子どもが好き放題したら困るじゃないか。それで親の役割を果たせるのですか。

大丈夫です。やるく親と子がつながる絆でありさえすれば。

ほんとうに信頼しているか、見せかけで信頼しているか、そのちがいを思春期の子ならちゃんと見分けることができます。

どこかで親を本当に信頼していれば、子どもは困ったときに親を頼ってきます。

よって、強い絆ではなく、深い絆がいいのです。