箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

増加した自主的に学校を休む児童生徒

2021年10月17日 07時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルスで感染者が出た場合、学校は臨時休校となります。

いわゆる第5波では、若い年齢の児童生徒にも感染が拡大したため、休校になった学校もけっこうありました。

それとは別に、第5波以前からもでしたが、感染する不安から、「自主的に」学校(小学校、中学校、高校)を欠席した(登校を控えた)児童生徒が全国にけっこういることがわかりました。

これは、文科省の長期欠席者の調査の一環として、感染がこわいからという理由での欠席の人数を調べた結果からわかりました。

その数は、小学生が約1万4000人、中学生が約6600人、高校生が約9300人にのぼり、全体でおよそ3万人になりました。

制度としては、感染不安により登校が不安だと保護者が申し出た場合、校長が「合理的な理由である」と判断すれば、「欠席」扱いにはならず、「出席停止」扱いになり、欠席とはカウントされないようになっています。

ただその場合、学校は家庭での学習機会を保障しなければなりません。

その対応は自治体によりちがいがありました。

オンラインを活用して、授業動画を配信したり、配信と定期的な対面授業を組み合わせた対策をとっている自治体がありました。

また朝のホームルームと休み時間はオンラインで教室と家庭がつながっていましたが、授業の同時配信がうまくいかなかったという自治体もありました。

学習の課題を提供したり、一人1台のタブレットを効果的に活用するための条件整備が必要になるのです。
また、一方通行のオンライン授業だけでなく、双方向のやりとりができる工夫も大切です。

ただし、新型コロナウイルスを怖がることは、他人を怖がったり、不安に思っていることであり、不登校の気持ちに通じる面があることを、教育関係者は深刻に受け止める必要があるのではないかと思います。

ちなみに、新型コロナウイルスとは無関係で、病気、経済的理由などの原因とは別に『不登校』になっている小中学生は約19万6000人にのぼり、過去最高になっています。

基本的に、学校は人とのつながりを求めて、児童生徒がやってくる場所です。感染不安で約3万人の児童生徒が欠席しているという事態は、ゆゆしきことであると思います。




露風の心境に想いを馳せる~赤とんぼの歌詞から~

2021年10月16日 06時39分00秒 | 教育・子育てあれこれ


先日、赤とんぼを家の近くで見つけました。

「夕焼、小焼のあかとんぼ 負われて見たのは いつの日か」

三木露風が「赤とんぼ」を発表したのは1921年(大正10年)のことでした。

この詩に山田耕筰がメロディをつけ、「赤とんぼ」になりました。


わたしはこの赤とんぼの曲をきいたり、歌ったりしたころは子どもの頃でした。美しいメロディに何かしらのさみしさを感じたのを今でも覚えています。

「おわれてみたのは」の「おわれて」の情景は、小さな子どもが赤とんぼ採りをしていて、赤とんぼを追いかけていたと解しましたが、あとになって母の背に負われていたと知りました。

さて、露風は兵庫県たつの市で生まれました。5歳のときに両親は離婚して、母は弟を連れて実家(鳥取県)へ帰ってしまい、露風は祖母の家に引きとられました。

1926年の『櫻(さくら)の下』の詩の原稿を綴ったノートには、「おっかさん、どこへ行ったのか。櫻の下で、待っても待ってもおっかさん、かえらぬ、どこへいた。・・・」と書かれています。

ある日、露風が幼稚園から帰ると、母はいなかったのでした。露風は、母の実家の方角に通じる紅葉橋で、毎日毎日母の帰りを待ったそうです。

露風が18歳になったとき、母(再婚した)からの手紙が来ました。

「汝(なんじ)の頬を当てよ、妾(わらわ)はここにキスしたり」と書かれていました。

露風はその手紙を抱きしめ、泣いたといいます。

母への想いはいくつになっても尽きることはなかったようです。

母が亡くなったのは1962年1月のこと。知らせを聞いて通夜に訪れた露風は、遺族に頼み、母の横に添い寝させてもらいました。

そのとき露風はすでに72歳でした。67年ぶりに母との添い寝の夢が叶ったのでした。

わたしが子どもの頃によく聞いた赤とんぼの曲想に、なにかしらのさみしさというかわびしさを感じた理由がわかりました。

露風が母を思う慕情。「赤とんぼ」の曲を口ずさむと、切なさがこみ上げてきます。

(「毎日新聞」2021年10月13日号の「おでかけ」をもとにして、書きました。)

(続)人とちがうことに不安感が増す時代

2021年10月15日 07時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ
前回のブログでは、他者との人間関係の中では「同調圧力」がはたらき、楽しさや親しみやすさがかえって重荷になるのが現代社会の特徴であると述べました。

そうだとすれば、以前の日本社会はどのような人間関係の特徴があったのでしょうか。同調圧力は感じなかったのでしょうか。

わたしの地域では子どもの頃は、自治会の下部組織としての「となり組」が健在でした。(たいへん緩くはなりましたが、今もあります)

となり組では、「みんながいっしょ」がキーワードでした。その家で葬式を出すとなると、昔は自宅で告別式をすることも多かったのですが、受付にはとなり組のメンバーが立ってくれます。

料理の仕出しはとらず、葬儀を出す当家以外のとなり組の人が台所に入り、天ぷらを揚げたりして、料理をつくります。

田植えや稲刈りは共同で地域の人が助けにきてくれましたし、近所へは助けに行きました。

このようにして地域では、住民同士の相互扶助が根付いていました。

新たにそのコミュニティにはいった人は、長老から「相手が誰か知らなくても、『おはようございます』とあいさつをしなさい」といわれました。

いわゆる「村八分」にならないように、周りに合わせて生きる必要があり、「そういうもの」とみんなが考えていました。

このようなことは、わたしの地域が特別だったのではなく、日本の田舎の方では、多かれ少なかれ昭和の途中まではどこもこのような「村落共同体」が存在していたのでした。

しかし、平成、令和と時代がかわると、わたしの考えではおそらく1990年代だと思いますが、個人の自己実現・自立という価値観が、人の生き方としてとってかわりました。

本来ならば、人はそれぞれ個性を追求でき、自由な存在であるはずなのです。

しかしながら、意識する/意識しないは別として、まだむら的な同質性が人びとの精神の基盤として残っているのです。

ここから「みんないっしょ」という同調圧力は生まれているのでないかと、わたしは考えます。

そこで「大きな役割」を果たしてきたのが、学校という「しかけ」です。

学校の先生は個性の時代、個性尊重といいながら、「みんなと同じようにしなさい」と言います。「なんで友だちなのに仲良くできないの」と言ってきました。

このころの小学校低学年からすり込まれた価値観や文化は、いまその残像を引きずり、人びとを「自粛警察」という行動にかき立てるのではないでしょうか。

そこで、そろそろ「いつもいっしょに」「みんな仲良く」というプレッシャーから解き放たれるのが今という時代ではないでしょうか。

ある程度の熟年を迎えれば、「友だちや連れがいないならいないでも大丈夫。わたしはひとりでもやっていくから」という気持ちになればいいと思います。

ただし、わたしが中学生には何度も話してきたことですが、「孤独にはなっても、孤立はするな」は必要です。

人とのつながりは大切だし、必要です。
ただし、一人でいても、さみしさを感じないのは孤独です。
さみしさを感じるのは孤立だと思います。

孤独な自分に納得していれば、同調圧力の呪縛から解き放たれるのではないでしょうか。

熟年の証とはゆるやかな人間関係を維持できることではないかと、最近思います。

人とちがうことに不安感が増す時代

2021年10月14日 08時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルス感染症への人びとの対応から、世間では「同調圧力」という言葉がよく使われるようになりました。

外出や外食を自粛しない人や、周りの人とちがう行動をすれば、容赦なく非難されたり、攻撃されたりしました。

それの理由は、同調圧力が関係者の中にはたらくからという説明です。

ただし、学校教育の関係者ならコロナ以前から、児童生徒の集団に働く同調圧力を肌で感じていました。

わたしも、以前に何度もブログに書いたことがあります。

いまの子どもたちの集団は、4月の学級開き当初はクラスという集団のまとまりや連帯は弱く、いくつかの小グループが存在します。

そして、グループ内で「自分だけが周りの友だちとちがうことをしない」ことに相当な気をつかっています。

一度でも、自分の意思に基づき、「わたしはそんなことしない」と主張するならば、次の日から口をきいてもらえなくなると知っています。

だから、自分の意思よりも、グループの意向をうかがい知り、それに合わそうとする。

これが同調圧力であり、子どもたちの世界ではコロナ災禍以前から、いまの子どもたちに特徴的に見受けられたことです。

(もっとも、学校では集団づくりや学級づくりを進めていくうちに、このグループ内だけで完結していたコミュニケーションが広がり、グループを超えての言動が生まれます。
集団づくりの取り組みを進めていくと、やがては昔ながらのクラスメートのつながりとかクラスとしての団結・一体感が生まれてきます。)

また、同調圧力はおとな社会も同じです。
子ども社会はおとな社会の縮図のようなものです。

職場で同僚が雑談で盛り上がっているのに、自分が加わらないと、協調性のない人と思われる。みんなで、昼食を注文しようとしているのに、自分だけが断ることができない。

このようなことがあるのではないでしょうか。

考えてみれば、他者との人間関係いうものは、その「親しさ」があるから自分が楽しくなったり、うれしくなったり、しあわせな気持ちになるためのもののはずです。

ところが今の時代では、その「親しさ」がかえって重荷になり、息が詰まりそうな苦しさになるのが現代社会なのです。  (次回に続く)

地球温暖化のペースが速まっている

2021年10月13日 07時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ


大阪では、9月に入ってけっこう涼しくなったと感じていましたが、10月のこの時期の暑さは近年感じないものです。

朝夕は涼しく、日差しはもちろん真夏の太陽ではないのですが、日中が真夏日の30度越えの蒸し暑い日が、この10月に続いています。

今はスーパーコンピューターを使うと、地球温暖化について、大量のデータをもとに,異常気象が起こる可能性や確率を計算することができるそうです。

2018年7月に大勢の犠牲者を出した西日本豪雨は、地球温暖化の影響で今までより約3.3倍起こりやすくなっていたと、気象庁は発表しています。

また、この2018年の夏には、観測史上最高の41.1度(埼玉県熊谷市)の記録的な猛暑となりました。これも、地球温暖化が原因になっているとコンピューターは分析しました。

世界的に見れば、豪雨や干ばつが多発するようになっています。2010年代の発生した件数は1970年代と比較して、約4倍になっています。

地球温暖化を防ぐには、温室効果ガスの排出を大幅に減らす必要があります。この方向性は以前から主張されていましたが、わたしもこれほど早く影響が出てくるとは思っていませんでした。

ただ、自分が住んでいる地域の変化は,肌で感じています。

山を切り開いてつくった国道が自宅から200mほど離れたところを走っていますが、大型ダンプが大きな音を立て、排気ガスを出し疾走します。

冬場の雪が積もる日が格段に少なくなりました。
子どもの頃は、降ってくるような満天の星を眺めることができましたが、いまは空が白くくもり、見える星の数が少なくなりました。
生える雑草の種類が変化しました。

これらの環境への被害や影響に歯止めをかけるのは温室ガス排出を大幅に減らす必要があります。

ただし、今から排出を減らしたとしても、今までに排出した温室ガスは大気中にたまったままで、私たちの環境に影響を与え続けます。

ですから、当面は気温が上がり続けることでしょう。大雨や熱波の被害は増え続けるでしょう。

国連のSDGs(持続可能な開発目標)の17の目標でいえば、地球温暖化に直接的/間接的に関係するのは、

1.貧困をなくそう 
2.飢餓をゼロに 
7. エネルギーをみんなに そしてクリーンに 
11. 住み続けられるまちづくりを 
12. つくる責任 使う責任 
13. 気候変動に具体的な対策を 
14. 海の豊かさを守ろう 
15. 陸の豊かさも守ろう
だと、わたしには思われます。

文部科学省は、Society5.0、情報へのアクセスや人工知能へ対応する人材の育成のためICT教育を学校教育に求めています。

それも大切ですが、いま日本がSDGs教育に取り組むのは喫緊の課題です。

次世代の子どもたちにSDGs教育を徹底して行い人びとの意識を変え、国や都道府県も本腰を入れて取り組まないとこれからも異常気象は起こり続け、被害が出続けると、わたしは懸念します。

わたしたちは、今自分としてできることは実行するという行動力をもちたいです。

「萌え」の夜景のように・・・

2021年10月12日 08時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ



大阪府の堺・泉北臨海工業地帯の工場群コンビナートは、夜景が見事です。まるでSFファンタジーです。

この夜景は「阪神高速道路湾岸線」から観ることができます。

阪神高速は南に行くほど和歌山に近づき、海が開けてくる雰囲気を感じることができます。

大阪市内を抜けると、堺市の街が開け、「湾岸線」をクルーズしていくとやがて工業地帯のコンビナートを観ることができます。

夜景は、関西では山や高層ビルから観ることが多いです。

たとえば六甲山からの神戸大阪の夜景は「100万ドルの夜景」で有名です。わたしも若い頃はよく六甲山に登って夜景を眺めました。

また、あべのハルカスからは大阪市内や奈良方面の夜景を観ることができます。

人はなぜ夜景に惹かれるのでしょうか。

夜は暗くて、なんとなく不安な気持ちになります。

しかし、その夜でも明かりが煌々と灯り、照らされた場所を眺めると,ある種の安心感や安らぎを覚えるからだと思います。

なかでも、コンビナートの工場の明かりは、そこに人がいて、活動をしているのを物語っているのです。

また、煩雑な日常が終わる時間帯に、手軽に異次元の世界に浸ることで、ひとは一日の疲れを癒やし、「萌え」気分になれるのです。

生きにくさを感じやすい現代社会で、人が生きていくには、ホッとする時間が必要であり、それはコンビナートの夜景に限る必要はないのです。

ときには,人の言葉に安堵してホッとすることもあるでしょう。

学校教育の中でも、いまの「中学生は変わった」と言われることもあります。

わたしも子どもが変わったと思うこともあります。しかしそれは表面上の変化です。

学習にがんばりたい。友だちが大切。学校の行事が好き。部活で技術を磨きたい・・・。

この中学生の願いは、今も昔も変わりません。

ただ、集団での人間関係の難しさを感じやすくなり、表に現れる行動が変わっただけです。

クラスメートからのかかわりを苦手に思い、自分からトゲを張り巡らせ、触れられることを避けようとする場合もあります。

でも、一方で学校の中で繰り広げられる「景色」に期待し、なかまとのやりとりにホッとする安堵を得たいのが中学生の望みです。。

クラスを運営するのに課題が多いこの時代ですが、集団がうまく育ったクラスでは、みんなが「まるく」なり、友だちの一挙一動が楽しく思える、しっとりとした人間関係が実現します。

そんな夜景のような安心できるクラスづくりを、学級担任ならめざしてほしいと考えます。

日本型教育制度の「強み」をいかす

2021年10月11日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ


学校の働き方改革を考えるとき、大きなニュースとなり、その根拠となったのはOECD調査でした。

小学校で3割以上、中学校で6割の教員が時間外超過勤務となり、「過労死ライン」に達する月80時間以上の残業をしていると文部科学省は、2016年に調査報告をしました。

2020年のOECD調査のデータでは、日本の小学校、中学校に勤務する教員の労働時間は、24カ国の中で6番目に長くなっています。

学校の働き方改革を進めてきた結果、少しはその効果が見えているようです。

ただ、労働時間だけを単純に比較はできません。

労働時間のうち、授業時間がどの程度を占めるかでみると、またちがった見方ができます。

授業時間はOECDの年間平均より、小学校は44時間短く、中学校は108時間短いことがわかりました。

つまり、日本の学校では、授業以外での教師と児童生徒とのかかわりや教員間の連絡会も含めた他の教職員との情報共有を大切にするという、日本の教育制度の「強み」があると、わたしは考えます。

働き方改革は、日本型教育の「強み」を活かしながら、事務作業に費やす時間を縮減していくことで進めるべきだと思います。

阪急電車に乗って

2021年10月10日 06時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしの小学生の頃は、電車の切符は紙製であり、改札口を通るときに駅員さんが、パンチのようなもので穴を開けてくれました。

それが、その駅から乗車したという証明がわりで、降りる駅では駅員さんが回収してくれ、改札口を通ることができました。

そして、小学校の高学年のころには、自動改札が登場しました。

この自動改札機は、関西の私鉄・阪急電車が世界で初めて導入しました。

切符も磁気を付け、裏側が茶色になりました。

阪急電車千里線終点の「北千里」駅は、高度経済成長時代の1967年に、千里ニュータウンの玄関口として開業しました。

その開業と同時に、自動改札機が世界で初めて設置されたのでした。

初めて自動改札を通るときには、おそるおそる切符を入れると、サッと引き込み、同時にゲートが開き、穴を開けた切符が出てきました。

当時は画期帯でした。

阪急電車の開業は1910年ですが、現在にいたるまでずっと「マルーン」の色を使っています。

わたしは、小学生の時は親に連れられ阪急電車、高校・大学生では通学で、そして今も通勤に阪急電車に乗ります。

人には、それぞれ阪急電車での思い出や人生のストーリーをもつでしょう。


その名もズバリ「阪急電車」という曲があります。

作詞:秋元康
作曲:中山英二

このドア近くにいつも立って
窓の外 見ながら 夢を語ってたね
叶わないことを知ってたのに
私は何度もただ頷いてた

何もない毎日が
幸せに思えた二年前 Ah

走り去って行く風景は
何もあの頃と変わってないのに
愛を知らぬ間に通過して
切なくなって来た阪急電車

(歌:NMB48)

車窓から見える景色に想いを馳せる人がいます。
それぞれの想いを乗せ、今日も阪急電車は走ります。




そのままで輝いている

2021年10月09日 06時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしの家の庭に白い花が咲いています。その白い花は、咲いているだけで白い光を発して、美しく感じます。

これを「白色白光」びゃくしきびゃっこう)といいます。仏教用語です。

お経の中に、「青色青光」「黄色黄光」「赤色赤光」「白色白光」(しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃっこう びゃくしきびゃっこう)という言葉で表されています。

存在しているだけで、その色はその光を発して輝いている。

現代流にいうなら、「あなたはあなたでいい」「存在そのものに価値がある」という意味です。

SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞でなら、「もともと特別なオンリーワン」というフレーズにあたります。

つまり、名誉や地位、富裕でなくても「そのままで光り輝いている」。それほど一人ひとりの人間の存在は尊いのです。

わたしは、それが人間の尊厳だと思います。

他の色を見て自分と比べて、あの色になりたいと思わなくてもいいのです。

ただ、中学生はこの言葉を聞いて曲解しないでほしいのです。

「あなたはあなたでいい」と聞いて、「そうか、ぼくはいまのままでいいんだ」と、何も努力しなくていいという教えではないのです。

発する光は、本人の努力や鍛錬により、さらに輝きを増します。

もっと勉強ができるようになりたい。

もっと英語が話せるようになりたい。

もっとサッカーがうまくなりたい。

もっとダンスがうまくなりたい。

もっと歌がうまくなりたい。

・・・・・・・・

もともと放っている光は、さらに美しく光るようになります。

そこにいたる練習や、ブラッシュアップ、努力のプロセスも尊いものだと思います。





クレームに苦しむ公務員

2021年10月08日 07時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルス感染症が拡大してから、ますます他者への「不寛容」の傾向が強くなってきたようです。

「自粛」していない人には、容赦なく落書きの悪口が書かれ攻撃されます。

コロナ関連でなくても、イラーとして声をあらげる人が最近増えたように思います。

地方自治体の役所や保健所の窓口では、暴言や説教、長時間の居座り、暴言・罵声などを受ける職員が増えているようです。

もともと、自治体の職員は、法や制度に則り行政サービスの紹介やコーディネートをするのです。

法や制度の範囲を越えては、市民の要望には応えられないものです。

公務サービスへの過剰な期待や要求は、差し控えるべきでしょう。

その範囲を超えた過大な要求をするのは、酷だというものです。

職員の中には、出勤が憂鬱に感じたり、眠れなくなったり、仕事に集中できなくなったりする人も出てきています。

感染者が多い都道府県の保健所は、効率化のもと職員の数が減らされ、ふつうでも業務がいっぱいなのに、PCR検査やワクチンの問い合わせやクレームが殺到します。

公務員は「全体への奉仕者」という立場上、本人に納得がいかなくても、謝罪しなければならない場面もあり、ストレスが高まります。

過度な期待や要求、暴言・罵声は、自分もイライラするし、言われる側も傷つき、辛いものです。

日本社会は「おもてなし」を海外へのウリにしていますが、国内では不寛容社会の傾向を強めています。





大学が定員割れを起こす時代

2021年10月07日 07時12分00秒 | 教育・子育てあれこれ


大学が定員割れを起こす時代が来ると以前より懸念されていましたが、今春の入学者状況をみると、それが現実の問題になってきました。

今春に入学者が定員を割った私立大学は約半分の46.4%になりました。

この数字は、その前年度から15%程度大幅に増え、93校があらたに定員割れを起こしました。

この定員割れを起こしているのは定員が3000人以上の大規模大学はあまり変化がないのですが、300人とか400人程度の小規模大学で、大きく入学者が減っています。

この原因は少子化が進行していることもありますが、新型コロナウイルスの感染蔓延で、リモート授業が多く、「大学生なのに、キャンパスに行けない」という状況で、大学への進学をしなかった人が増えたことも関係しているのかもしれません(データはないですが)。

大学が淘汰される時代が来るのかもしれません。

いまや、大学は生き残りをかけて、特色を打ち出し魅力を高めることと広報活動に躍起になっています。

内面を高める服装、身だしなみ

2021年10月06日 07時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルス感染防止のため、テレワーク、リモートワークが進み、マスクをつける習慣が定着しました。

外へ出かける回数が減って1年以上がたち、人の身だしなみやファッションにも変化が出てきています。

たとえば、メイクよりスキンケアを重視する、口元より目元に留意する、外出着に注意を払わないなどの傾向が出てきているようです。

とくにボトムスはオンラインで映らないから部屋着で済ませるという人が増えたとか。

また、いまは服よりもアクセサリーやジュエリーがよく売れています。

つまり見えないところより、見えるところに注意し、キラッと光るような目立つアイテムでルックスをよくしようという考えだと思います。

ただ、見えるところだけに力点を置いて身だしなみをするのは、少々の違和感をわたしは覚えます。

そもそも、考え方にもよりますが、ファッションやメイクは誰かに見せるというよりは、自分の内面を高めることに役立つものです。(と、わたしは考えます。)

その意味で、「見える部分」だけ着飾るのは、ちょっとちがうのではないかと思います。

一般の学校では、コロナがあろうがなかろうが、「中学生らしい」服装をすることを指導します。

そして、多くの中学生はそれを誠実に守り、実行しています。

着崩すのではなく、端正に制服を着用している中学生には、それ相当の雰囲気があると、わたしは考えています。

大人だけ、「見えないから」といい加減にして、手を抜くのはいただけないと、わたしは考えます。

カラスの「お告げ」

2021年10月05日 07時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ


わたしは大阪北部こ自然豊かな田舎で生まれ、田舎で育ち、山に囲まれたふるさとで子ども時代を過ごしました。

夕方になると、夕焼けが「山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあわれなり」(「枕草子」)の世界を体感しました。

この原体験をもち、中学生で清少納言の古典随筆『枕草子』を学習したとき、作品と自分の体験が重なり、より深くその「あわれ」の世界を理解したのでした。

その点で、国語の授業で、いまの自然体験の少ない中学生が古典や小説にふれるとき、どれほど深く、その作品の描く世界をイメージできるかが心もとない思いがします。

じっさい、わたしの家の周りにはカラスが多く住んでいました。(いまも同じふるさとに住んでいます。)

「カー・カー」と鳴くその声は、「ああ、もうすぐ日が沈む」という牧歌的な響きをわたしに植え付けたのでした。

この原体験のカラスは、マイナス的なものではなかったのです。

一方、カラスを不吉な鳥として捉える体験もしました。

お盆(関西では8月中旬)のころには、おばあちゃんがナスビを輪切りしたものに、お線香を三本ほど立て、家の周りのいくつかの箇所に置きます。その周りの地面にお茶をかけるお盆の風習がありました。

私は、それについて回っていたのでしたが、毎年おばあちゃんが聞かせる話がありました。

「むかし、こうやってお盆にやかんのお茶をもって回っていると、ある年のお盆の頃、頭の上で、カー・カーとそれはうるさくカラスが何度も鳴くことがあってな。なんでこんなに鳴くのだろうと思っていると、まもなくして親戚の人が病気で亡くなった・・・」。

この話を毎年聞きました。そういう意味では、カラスは不吉なことを告げるマイナスイメージの鳥として、私の脳裏に焼き付いていきました。

きわめつけは、友だちの家へ遊びに行ったときです。その家は外に鳥かごが出してあり、そのかごの中にカラスを一羽飼っていたのでした。「えー、カラスを飼っている!」と驚きました。

真っ黒な羽毛で、太いくちばしで、「カラスを飼う」という行為そのもの、わたしは不気味で嫌な印象を持ち、カラスに対するマイナスイメージを増幅させたのでした。

最近では、都会でも生ゴミ改修前に道に置いてあるビニール袋を突っついて、中身を散乱させているのを見ます。

おそらく、世間ではカラスを害鳥と考える人も少なくはないでしょう。



ただ、わたしは自身の経験から、不吉な知らせというよりは、大きな自然災害が多発するようになった今日、カラスは人間が人工的に作り出した「都市」の限界や破綻をいち早く察知し知らせる予言者的な鳥かもしれないと思います。

ですから、カラスそのものは不吉な鳥ではなく、飛んでいるのを遠くから眺める鳥として、夕焼けに映える鳥として、山に寝どころをかまえる鳥として、カラスはわたしのなかで、いまも生きています。

人は、自分の体験が文学作品と重なるとき、その作品は鮮やかに色づき、輝きを増し、人の知的好奇心を高めるのです。


 強いつながりは苦手

2021年10月04日 16時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ


わたしは高校3年の夏、友だちと徳島県の海部町(いまは海陽町)という町に泊まりに行きました。友だちのお父さんのふるさとでした。

徳島市内からJRに乗り、その後かなりの山あいに入っていきました。

家の前には海部川という、水が澄みきったきれいな深い川が流れていました。

水深は深いところで3メートルはゆうに超えていました。川底に大きな鮎が泳いでいました。

この町は江戸時代は材木の集積地で、移り住む人が昔から多くいました。

という点で、海部町は日本古来の農村型の地縁結合型のコミュニティではないという点で他の地域とは異なって発展してきました。

わたしは、子どもの頃は地域にまだ「村落共同体」的な特徴が残っていました。相互扶助がありがたい反面、プライベートにも入り込むので煩わしくもありました。

ところが、海部町の近所づきあいは、常日頃から生活を支え合うような関係ではなく、もっとゆるやかなつながりです。

その海部町が突出して「自殺率の低い町」として、注目されています。

ひょっとすれば、「絆」に代表されるような人間関係の縛りがゆるいコミュニティほど、自殺に向かう人は少ないのかもしれません。

いまの中学校の生徒の状況を見れば納得がいきます。

○年○組という学級は、1年間同じメンバーで、人間関係が濃くなると同調圧力がはたらきやすいのが今の集団の特徴です。

みんなとちがった言動がとれないというしばりがつよく、自分だけちがったことをすると仲間はずれにされ、孤立することもあります。

もちろん、そのような集団を適正で教育効果の高い集団に成長させていくのが、学級担任の役割です。

ただ、今の時代は人を孤立させない「ゆるやかな人間関係」でつながり合うのがいいのです。

東北地震以降よくいわれるようになった「絆」は響きのいい言葉ですが、つながりを生み出す反面、メンバーをしばる側面があるのです。

いつも「同じ」行動・活動に従事するのではなく、この活動ではこの人とつながり助け合うが、別の活動ではまた別の人とつながっているような人間関係の方が望ましいのです。

お互いを拘束する強いつながりは生きづらさを生み出し、つながりが強くなるほど他から入ってくる人をはじき出すことになり、絆の中に入れない人は孤立するとういう傾向があります。



いま始めるのはSDGsの教育

2021年10月04日 07時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ


今の気候変動は、けっこう急激に進行しているように感じます。

地球が温暖化して、線状降水帯が発生しやすく、豪雨がしばしば降るようになっています。

事実、私の地域でも温暖化は肌で感じています。大阪府でも北部なので,わたしの子どもの頃ははひと冬に4~5回は雪が積もりましたが、今では1回積もるか積もらないかです。

また、20年前までは冬期に道路が凍結するのでスタッドレスタイヤが必需品でしたが、いまはほとんど必要ありません。

また、庭に生える雑草も種類が変わってきました。植物は環境に対して正直です。

こういう温暖化現象は、人間がこれまでに排出してきた温室効果ガスがたまってきて起きていることなので、かりに今すぐに排出をゼロにしたとしても、温暖化による被害はすぐには止められません。

つまり、ここで排出ペースを下げても、またゼロにしたとしても、温室ガスはすこしずつ上昇していくと考えられます。

となると、温暖化の問題は、遠い先の話ではなく、いまの子どもたちがダイレクトに影響を受ける問題であるということです。

いまよりも夏の気温は暑く、大雨が降る頻度は高くなるのです。

よって、いまSDGs(国連の「持続可能な開発目標」)に取り組むのは、喫緊の課題です。

学校教育のなかでもICT教育やSociety5.0への対応も大切ですが、もっとSDGs教育に取り組まないと被害を受けるのは、学習の主体者である若い世代です。

「そのうちに・・・」では、地球温暖化による被害はますます増大します。

大量生産・大量消費・大量廃棄を続けてきたことにより、気候が危機的な状況にあるだけでなく、生物の多様性が失われてきています。

ものをつくる側、消費する側相互の関わり合いで、「つくる責任、つかう責任」(SDGsの目標の12番)に貢献する人びとや企業の取り組みを進めていかなければなりません。