カスハラ(カスタマーハラスメント)が、問題になっています。
お客さんから店側への行き過ぎたクレーム、横柄とも言える態度は、立場的に上下関係になりやすい、お客さんと店員の関係からきています。
また、病院での患者や家族による、医療関係者へのハラスメントは「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と言われます。
あまりにもペイハラが深刻で、ときには医療従事者のフルネームの実名をあげて、「死ね」「バカ」などの悪口をインターネット上に書き込む悪質なハラスメントもあります。
病院によっては、防衛のため、名札の名前は姓だけに変更したところもあります。
中央教育審議会(中教審)は8月27日に公立学校の教員確保に向けた総合的な方策を文科省に答申しました。
答申は、時間外勤務手当をを支払うかわりに給与に上乗せ支給する「教職調整額」を従来の一律4%から13%に引き上げることを求めています。
長時間労働を是正する働き方改革が答申の柱になっています。
それを受け文科省は、教職調整額の増額や小学校の教科担任を広げることの案をまとめ、そのための財源を2025年度予算の概算要求に計上します。
そもそも、公立学校の教員の給与は、その3分の1を国が出します。残りの3分の2は地方自治体が出します。
教職増額分だけでも、国の支払い分は1年につき、1270億円となります。
財務省としては、全国の教員の給与増が関係するので、そう簡単に予算要求を受け入れるかどうか。
折衝は難航することが予想されます。
もともと、教員が忙しすぎるという問題点から教職志願者が減っているので、教員の仕事量全体を減らしていくのが本来取るべき方策です。
それなのに、給料を上げることで問題が解決するのかという疑問もあります。
もちろん、教職調整額を上げるだけでなく、小学校での教科担任制を増やす施策なども含んでの予算要求になっています。
教科担任制は、小学校の学級担任にとってみれば自分の担当する教科が減るので、負担軽減にはなります。
しかし、「この教科は担当したことがないので、教えることができない」という教員が小学校で増えてくることはどうなのでしょうか。
たとえば理科専科を導入すると、理科の実験や観察はできないままの教員が増え、それが小学校教員の専門職制としていいのかどうかという問題が出てきます。
給特法の改正案は2025年の通常国会に出されます。
SNS上には、「実は在日韓国人だった芸能人」というタイトルをつけた動画が溢れています。
その投稿をみると、投稿者の在日韓国人に対する蔑視的な意識を、わたしは感じとります。
川崎市では2015年ごろから、在日コリアンなどに対して差別的なデモ・ヘイトスピーチが相次ぎました。
そのため、2020年7月に川崎市は全国で初めて外国にルーツをもつ人びとへのヘイトスピーチを禁止する条例を施行しました。
この条例の特徴は、ヘイトスピーチをした場合にに罰則規定を設けたことです。
そのことによって来日したり、戦後もさまざまな事情で日本に生活基盤をもつようになったりしたのです。
そうした歴史を知っていれば、その差別はがいかに不条理で、許されないことかを理解できます。
私たちができることは、少なくはないです。
「差別はダメだ」といろんな形で発信することは、それらのうちのは一つです。
SNS(ネット交流サービス)を使う、ヘイトデモに対して黙って反対の意を示すだけでもできます。
反差別の思いを共有し、広げていくのです。
決して平らな道ではなかった けれど確かに歩んで来た道だ
何度も何度もあきらめかけた夢の途中
いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
初めて経験した世界戦争(第一次世界大戦)によって、若者たちは精神的にも肉体的にも傷を負い、信じるものを失ってしまった。
そんな姿を描いているのが、『日はまた昇る』なのです。
小説の巻頭にヒントがあります。
「あなたたちはみんな、ロスト・ジェネレーション」というヘミングウェイの文学の師、ガートルード・スタインの言葉が出てきます。
ロスト・ジェネレーションとは「第一次世界大戦によって進むべき方向を見失った世代」のことです。
続いて「日はまた昇り、また入る」と、題名の由来となる聖書の言葉があります。
この引用が意味するところは「この世に新しいものなどなく、永遠にグルグル回り続けるだけ。希望は見えない」ということだそう です。
同じ言葉でも、別の捉え方をすることで、さまざまな意味に解釈できるのです。
本の魅力とは、言葉をみてさまざまな解釈をして、自分が経験していない違う世界に入ることができるという面白さがあるのです。
男性は、育休・産休がきちんと取れる会社でフルタイムか、それに近い条件で働いてくれて、共働きで協力していけるパートナーがあわよくば見つかればいい。
ただ一つ言えることは、わたしのような高度経済成長・バブル世代は恋愛至上主義の価値観を当然としてきました。
でも、今後の社会を担うZ世代は、多様性をとてもに大切にしています。
これからも恋愛や結婚に対する意識は変化し、多様化していくのかもしれません。
SNSが全盛の時代ですが、中学生をはじめとする思春期の若い人たちには、読書を大切にしてほしいと思います。
人と話すとき、自分の気持ちや感情を伝えるとき、言葉は大きな役割をもっています。
そのとき、読書をしていろいろな本に触れた経験が役にたちます。
読書によって、知らない世界を知ることができます。
とくに思春期の心情は、言葉で表しにくいことも多いものです。
疑問や悩み、迷いが本を読むと考えが整理され、複雑で言葉にしにくかった感情を理解できるようになります。
自分とはちがう他者の心情や考えも想像できるようになります
読書をすると、物語の登場人物の正しい、まちかっているだけで片づけられると納得できないというもやもやした思いが描かれていることもあります。
私たちが生きるこの世界では、答えを簡単にはきめることができないものがあるからです。
そこで、人には想像力を培うことが求められます。
人の気持ちを思いはかり、ものごとを立体的に見ることができるのは、想像力の働きによるところが多いのです。
あの人のあの行為には何か理由があるのかなと思えます。
そのために読書は重要で、物語が教えてくれるのです。
思春期の子であれ、成熟したおとなであれ、読書は大切です。
戦争に向き合うよりも、日常生活で出会う人たちなど、たわいもないことに感謝し、その人たち日々仲良くしていくことのほうがよほど現実的である。
そういうしあわせを享受すればいい。
このように、世界の現実に目を背け、身近なしあわせを大切にする。
そのような心情を、いまの日本で多くの人びとが抱くのではないでしょうか。
しかし、私たちの日常の「身近なしあわせ」と世界で起きている不条理や悲劇的な戦争とがまったく次元の違うこととみなされ、つながっていないのはどうしようもないことなのでしょうか。
そうではないと考えます。
学校での平和学習は、おもに過去の戦争を学び
平和を希求する願いと態度を育てるという方法で実践されています。
でも、過去と現在は地続きであり、過去の戦争と現在の戦争は、隣り合わせなのです。
過去の歴史に学び、その悲惨さを知るだけでなく、現在の世界の平和について見つめ考える学習にまで、学校の平和教育を発展させるべきです。
学校だけでなく、私たちは目に見えない大きな壁で囲われた環境に閉じこもり、壁の外の環境が自分たちの世界と隣り合わせであることを、無視しないで日々を過ごしていきたいと思うのです。