箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

休むことの効用

2024年09月13日 06時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ
私にも経験がありますが、働きすぎ、オーバーワークはよくないと思います。

オーバーワークになると、「これが生活だ」と思うことがなくなり、心の余裕を失います。

わたしはフルタイムの勤務を退職して、そのことに気がつきました。

とにかく夕食の時間が早くなり、19:00には食べ終わっています。

それから、少しテレビを見ても、まだ本を読む時間があります。

夜の時間をゆったりと満喫できることがわかったのです。

忙しすぎないことは、体の状態をリフレッシュすることになります。

気持ちが沈んで何もする気にならないという人は、気持ちをなんとかしようとする前に、まずは体の状態を整えるのがいいと思います。

仕事を、人生を持続可能にするには、休むことがいちばんの秘訣なのかもしれません。



苦情を要望ととらえるか、無理難題ととらえるか

2024年09月11日 06時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ

カスハラ(カスタマーハラスメント)が、問題になっています。


お客さんから店側への行き過ぎたクレーム、横柄とも言える態度は、立場的に上下関係になりやすい、お客さんと店員の関係からきています。


また、病院での患者や家族による、医療関係者へのハラスメントは「ペイシェントハラスメント(ペイハラ)」と言われます。


あまりにもペイハラが深刻で、ときには医療従事者のフルネームの実名をあげて、「死ね」「バカ」などの悪口をインターネット上に書き込む悪質なハラスメントもあります。


病院によっては、防衛のため、名札の名前は姓だけに変更したところもあります。



ただ、患者としては手術や長期の治療を要する場合であればあるほど、しっかりとコミュニケーションをとりたいと思うでしょう。

患者からすれば、医療という健康や命を預ける場だからこそ、相手の名前を知った上で関係を築きたいと思う人もいるでしょう。

医療は、病院と患者との信頼関係の上に成り立つという考えが本来です。

学校の教職員も、ときとして保護者からのクレームに悩まされます。

学校の子どもに対する対応がよくなくて、批判・苦言を教員が受ける場合もあります。

ただ、学校側に問題がないのに、無理難題を言われる場合は、教員は疲弊してしまい、メンタル疾患にいたる場合もあります。

学校教育でも、教職員と保護者との信頼関係の上に成り立つのはもちろんのこと。

学校も、無理難題になるか、それとも保護者からの苦情が改善してほしいという要望から出ているのかをみきわめる必要があります。

もし、保護者からの切なる要望であるなら、真摯に応えていくべきものです。




















自分らしさとは

2024年09月10日 07時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ
中学生の心はやわらかく、揺れ動きます。

お皿にのせたゼリーのようなものです。

今まで、疑問をはさまず聞いていた親や教師の言葉に「そうだろうか、違うと思う」のように、自分の考えが育ってきます。

この自分の考えができることが「自分らしさ」につながっていくこともあります。

ただし、自分らしさはスンナリと見つかりにくいもので、一生かかっても見つからないこともあります。

そのため、よく考える子はそのことで悩みが深くなることもあります。

私は中学生から高校生にかけて、対人関係で深く悩みました。

なかなか心を許せる友だちができず、みんなと同じ輪に入らず、いっしかにいても心は孤独でした。

高校2年になって、いつも行動を共にする友だちができました。

その後教職についても、自分らしさを探していたのを思い出します。

40歳になった頃、自分らしさを見つけました。

それは、いま自分の人生をふりかえり、客観的に自己をながめたとき、そう思うのです。





4パーセントから13パーセントへ

2024年09月09日 06時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ



中央教育審議会(中教審)は8月27日に公立学校の教員確保に向けた総合的な方策を文科省に答申しました。


答申は、時間外勤務手当をを支払うかわりに給与に上乗せ支給する「教職調整額」を従来の一律4%から13%に引き上げることを求めています。


長時間労働を是正する働き方改革が答申の柱になっています。


それを受け文科省は、教職調整額の増額や小学校の教科担任を広げることの案をまとめ、そのための財源を2025年度予算の概算要求に計上します。


そもそも、公立学校の教員の給与は、その3分の1を国が出します。残りの3分の2は地方自治体が出します。


教職増額分だけでも、国の支払い分は1年につき、1270億円となります。


財務省としては、全国の教員の給与増が関係するので、そう簡単に予算要求を受け入れるかどうか。


折衝は難航することが予想されます。


もともと、教員が忙しすぎるという問題点から教職志願者が減っているので、教員の仕事量全体を減らしていくのが本来取るべき方策です。


それなのに、給料を上げることで問題が解決するのかという疑問もあります。


もちろん、教職調整額を上げるだけでなく、小学校での教科担任制を増やす施策なども含んでの予算要求になっています。


教科担任制は、小学校の学級担任にとってみれば自分の担当する教科が減るので、負担軽減にはなります。


しかし、「この教科は担当したことがないので、教えることができない」という教員が小学校で増えてくることはどうなのでしょうか。


たとえば理科専科を導入すると、理科の実験や観察はできないままの教員が増え、それが小学校教員の専門職制としていいのかどうかという問題が出てきます。



給特法の改正案は2025年の通常国会に出されます。






ヘイトスピーチに抗う

2024年09月08日 05時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ


SNS上には、「実は在日韓国人だった芸能人」というタイトルをつけた動画が溢れています。


その投稿をみると、投稿者の在日韓国人に対する蔑視的な意識を、わたしは感じとります。


川崎市では2015年ごろから、在日コリアンなどに対して差別的なデモ・ヘイトスピーチが相次ぎました。


そのため、2020年7月に川崎市は全国で初めて外国にルーツをもつ人びとへのヘイトスピーチを禁止する条例を施行しました。


この条例の特徴は、ヘイトスピーチをした場合にに罰則規定を設けたことです。


在日コリアンの人たちが日本にいるのは、かつて日本が朝鮮半島を植民地支配したことにさかのぼります。


そのことによって来日したり、戦後もさまざまな事情で日本に生活基盤をもつようになったりしたのです。


そうした歴史を知っていれば、その差別はがいかに不条理で、許されないことかを理解できます。




私たちができることは、少なくはないです。


「差別はダメだ」といろんな形で発信することは、それらのうちのは一つです。


SNS(ネット交流サービス)を使う、ヘイトデモに対して黙って反対の意を示すだけでもできます。


反差別の思いを共有し、広げていくのです。




苦労が今を支えている

2024年09月07日 06時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ

もうダメかもしれないとあきらめかけた日があった。

仕事で失敗した日があった。

うまくいかなくてくじけた日もあった。

あの日の絶望感 不安・悲しみが

今のわたしをつくっている 支えている。

と、この年齢になり思うことがあります。

このような実感を描写した曲があります。

ゆずの過去の名曲「栄光の架橋」が昨年、阪神タイガースの応援の中で何度も流れました。

苦労や困難が自分を支えているという思いに、共感を覚える人は多いのでしょう。



栄光の架橋(ゆず)

誰にも見せない泪があった
 人知れず流した泪があった
決して平らな道ではなかった けれど確かに歩んで来た道だ
あの時想い描いた夢の途中に今も
何度も何度もあきらめかけた夢の途中
いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい

悔しくて眠れなかった夜があった
恐くて震えていた夜があった
もう駄目だと全てが嫌になって逃げ出そうとした時も
想い出せばこうしてたくさんの支えの中で歩いて来た






本を読む面白さ

2024年09月06日 06時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしは学生の頃、ヘミングウェイの『老人と海』を読み、この作家を知りました。

ヘミングウェイは、アメリカの作家でしたが、ほかの小説に『日はまた昇る』があることを知りました。

この小説を読む機会がなく、今にいたっています。

しかし、当時『日はまた昇る』という名前を聞いただけで、わたしは前向きなイメージをもっていました。

暗くなり、たとえ日が沈んだとしても、希望の太陽がまた昇ってくると、ポジティブなイメージをもったのでした。

しかし、最近になり、ヘミングウェイの研究者である関西学院大学の新関芳生さんの見解を読んで、わたしの持ったイメージが正反対であることを知りました。


初めて経験した世界戦争(第一次世界大戦)によって、若者たちは精神的にも肉体的にも傷を負い、信じるものを失ってしまった。


そんな姿を描いているのが、『日はまた昇る』なのです。


小説の巻頭にヒントがあります。


「あなたたちはみんな、ロスト・ジェネレーション」というヘミングウェイの文学の師、ガートルード・スタインの言葉が出てきます。


ロスト・ジェネレーションとは「第一次世界大戦によって進むべき方向を見失った世代」のことです。


続いて「日はまた昇り、また入る」と、題名の由来となる聖書の言葉があります


この引用が意味するところは「この世に新しいものなどなく、永遠にグルグル回り続けるだけ。希望は見えない」ということだそう です。


同じ言葉でも、別の捉え方をすることで、さまざまな意味に解釈できるのです。


本の魅力とは、言葉をみてさまざまな解釈をして、自分が経験していない違う世界に入ることができるという面白さがあるのです。




起立性調節障害の子どもを理解する

2024年09月05日 09時51分00秒 | 教育・子育てあれこれ


中学生の中には、起立性調節障害(OD)と言われる病気を発症する生徒がいます。
 
思春期に現れやすく、朝や午前中に血圧が上がらず、なかなか起きにくいのです。

体がだるく、たちくらみを感じて、学校に行けなくなる場合も多く、不登校にもなりがちです。

人によりますが、午後からは血圧が上がり、体調がよくなることもあります。

ですから、わたしは教頭・校長在任中に、始業時刻には間にあわないけれども、体調がよくなって午前中遅く、または午後から保健室に登校してきた生徒に対応していました。

午後に比較的元気そうなようすを見た人は、起立性調節障害の理解がない場合、登校できないのはサボリでないかと誤解することもしばしばです。

朝起きれないつらさは、本人がいちばんよく知っています。教育関係者としては、そのつらさ、しんどさを知ったうえで、その思いに寄り添う態度が求められます。

思春期を過ぎる頃には、症状がかなり改善されることも多いようです。

ただ、中学生期は症状がいちばん重い時期に重なることが多く、高校進学の際には、朝に起きれない状況を考慮して、単位制高校や通信制高校、フレックスタイムの高校を選ぶことも多くあります。

家で、得意なことに集中して取り組む生徒もいます。

たとえば、色鉛筆を駆使して、独自の手法で立体的な絵を描き、SNSにあげると、1万件ちかく「いいね」がついて、自信を深めた生徒の例があります。

学校に行けず、友だちにも会えない日が続き、しんどいときでも、好きなことに没頭でき、
多くの人にみてもらえるのは、大きな励ましになります。

起立性調節障害の生徒は、一にも二にも、親御さんや教員をはじめとする、周りの人の理解が不可欠なのです。











若い世代の恋愛・結婚・出産観とは

2024年09月04日 07時49分00秒 | 教育・子育てあれこれ

タイパやコスパを大切にするといわれる若い世代の人たちの価値観は、恋愛や結婚にまで影響しているのかと思うことがあります。

お金、時間をかけて恋愛しても、別れは突然訪れることもある。そうなるとすべてが終わりになり、「自分は今まで何をしていたの」と、無駄に感じる。

相手があきらめずストーカーになり、つきまとう危険もある。

そのような不確実な恋愛に費やす時間と労力を無駄と考える若者は増えているのではないかと思います。

でも、本当にそうでしょうか。

人を好きになるということは感情の問題で止めようと思っても止まらない。
損得を超えたところに恋愛はあるのではないかとも、一方で思います。

ただ、いわゆる「失われた30年」の間に、日本では雇用形態がすっかり変わってしまいました。

非正規雇用が増え、とくに女子の非正規雇用の割合は顕著に増加しました。

男性の場合、結婚する相手の女性に経済力を求める男性が増えています。

男性は、育休・産休がきちんと取れる会社でフルタイムか、それに近い条件で働いてくれて、共働きで協力していけるパートナーがあわよくば見つかればいい。


そうなると、低い収入や非正規雇用の女性は、「自分は選ばれない」などと自信を喪失し、恋愛に消極的になってきます。

考えてみると、そもそも日本社会では、ずっと昔は見合い結婚が主流でした。

恋愛結婚は、せいぜい50、60年間の浅い歴史しかありません。

恋愛して結婚して、出産するという考え方そのものが、昭和時代の価値観のなごりなのかもしれません。

なかなか、考えが私自身もまとまりません、

ああだろうか、こうだろうかと思いをめぐらせます。

ただ一つ言えることは、わたしのような高度経済成長・バブル世代は恋愛至上主義の価値観を当然としてきました。


でも、今後の社会を担うZ世代は、多様性をとてもに大切にしています。


これからも恋愛や結婚に対する意識は変化し、多様化していくのかもしれません。







想像力を読書で培う

2024年09月03日 07時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ


SNSが全盛の時代ですが、中学生をはじめとする思春期の若い人たちには、読書を大切にしてほしいと思います。


人と話すとき、自分の気持ちや感情を伝えるとき、言葉は大きな役割をもっています。


そのとき、読書をしていろいろな本に触れた経験が役にたちます。


読書によって、知らない世界を知ることができます。


とくに思春期の心情は、言葉で表しにくいことも多いものです。


疑問や悩み、迷いが本を読むと考えが整理され、複雑で言葉にしにくかった感情を理解できるようになります。


自分とはちがう他者の心情や考えも想像できるようになります


読書をすると、物語の登場人物の正しい、まちかっているだけで片づけられると納得できないというもやもやした思いが描かれていることもあります。


私たちが生きるこの世界では、答えを簡単にはきめることができないものがあるからです。


そこで、人には想像力を培うことが求められます。


人の気持ちを思いはかり、ものごとを立体的に見ることができるのは、想像力の働きによるところが多いのです。


あの人のあの行為には何か理由があるのかなと思えます。


そのために読書は重要で、物語が教えてくれるのです。


思春期の子であれ、成熟したおとなであれ、読書は大切です。












過去と現在はつながっている

2024年09月02日 05時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ

学校教育では、ヒロシマ、ナガサキ、沖縄、第二次世界大戦のときの大空襲などの学習をとおして、平和教育をいまの10代の児童生徒に実践しています。

しかし、その一方で世界では、ウクライナ、ガザ侵攻が毎日のように報道されます。

私たちはメディアを通じて知る世界の不条理や不正義に怒りを覚えます。

時として、学校の教員のなかには、平和学習に無力感を感じる人がいてもおかしくはないかもしれません。

世界で起きている紛争や戦争をただすための行動が見つからないのも、私たちふつうの市民が感じるジレンマです。

たしかに、デモに参加するなどして自分の意思を明らかにすることは可能です。

でも、そうした行動は日本では強力ではなく、不正義をただす活動が継続的な力になっていないのが現実です。

そこで悲劇的な、世界の平和でない状況について断片的な情報で一喜一憂することから目をそむけるという考えが生まれてきます。


戦争に向き合うよりも、日常生活で出会う人たちなど、たわいもないことに感謝し、その人たち日々仲良くしていくことのほうがよほど現実的である。


そういうしあわせを享受すればいい。


このように、世界の現実に目を背け、身近なしあわせを大切にする。


そのような心情を、いまの日本で多くの人びとが抱くのではないでしょうか。



しかし、私たちの日常の「身近なしあわせ」と世界で起きている不条理や悲劇的な戦争とがまったく次元の違うこととみなされ、つながっていないのはどうしようもないことなのでしょうか。


そうではないと考えます。


学校での平和学習は、おもに過去の戦争を学び

平和を希求する願いと態度を育てるという方法で実践されています。


でも、過去と現在は地続きであり、過去の戦争と現在の戦争は、隣り合わせなのです。


過去の歴史に学び、その悲惨さを知るだけでなく、現在の世界の平和について見つめ考える学習にまで、学校の平和教育を発展させるべきです。



学校だけでなく、私たちは目に見えない大きな壁で囲われた環境に閉じこもり、壁の外の環境が自分たちの世界と隣り合わせであることを、無視しないで日々を過ごしていきたいと思うのです。


















むかしのことを振り返ると、現代が見える

2024年09月01日 06時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ


現代社会では、社会の構造が複雑化しています。

しかし、もっと以前の日本の社会、たとえば昭和の頃はもっと単純だったように思い出します。

勧善懲悪がはっきりしていて、いいことはいい、悪いことは悪いと明快でした。

しかし今は、悪いことをしたとしても、その背景を考えると、無理もなかったかもしれないね。

それは善行だけれども、こちらの人びとにとっては不利益になるよ。

受け取り方や受ける印象は、人それぞれなのです。

そんなふうに、一概にいいとか悪いを即断できないこともあります。

その点で、昔の時代を振り返って述べることで、かえってはっきりしてきて、社会のあり方や人と人の関係を基本から見つめ直すことができるかもしれません。

そういう意味では、昭和懐古はあながち価値のないことではないと思います。

たとえば今なら、小説や物語の本を読んで、現代のあるできごとや関係を別の角度から照らし出し、現代では「人間にはこういう面もある」「この人にはこういう面もある」と受け手により判断は多様です。

画一的な見方から脱していくのが時代にあった考え方になると思われます。

現代の人と人の関係は、ゆるやかな関係であり.「いつもあのひとといっしょ」ではないけれど、この場合はともに活動する、でもあの場合は別の人と活動するといったつながりを人は求めているのです。