
ギリギリまで、コロナワクチンを打つのを待った私(迷っていたから)
「会社で肩身が狭い」「2回接種済みでないと入院は不可だから」と、接種した次男
・・・ですが、後悔していた
アマビエの横の旗に「障がい者云々」と記されているが、令和の時代になっても人々の心の中の差別は無くならない
胆道閉鎖症という難病で生まれた次男は「健康だったら92歳までは生きただろう」と言われた
心の中では「なんで俺だけが!」と思っていただろうと思う
小学校低学年の頃は、いじめにあっていたのか「自宅前で涙を拭いてから、家に入ってきていたこともあった」と母から聞いた
食道静脈瘤・脾臓塞栓術や上行性感染等、辛い長い入院生活にも耐えた
治療中は絶食で、赤ちゃんの頃でもミルクは1ヶ月も貰えなかったこともある
「いつか食べられなくなるから、あれもこれも食べさせたかったと後悔しないように」と、同じ難病の子を持つ御母さんに言われた
次男は思春期になる頃には、入院をすることもなく・・健常児と変わらない日常を送れた
さらに、グルメになって「お高くて旨いものを食べるんや」が口癖になっていた
高校時代には春・秋の遠足で素晴らしい処に連れて行っていただけた
特に冬季の『スキー研修旅行』は、物凄く楽しかったらしくて「来年も行きたい!」と♪
「友達が転んで後ろの子が止まれずに、友達の上を滑って行った」と爆笑したとか、楽しそうに様々なことを話してくれた
高校卒業後は良い職場に就職したが、新人を怒鳴ったり、次男を後ろから蹴ったりする職員がいたと聞いた(今の時代なら、れっきとしたパワハラ)
同じ高校から就職した数人の同級生も、体調不良で入院したりする子もいて・・辞めて行ったらしい
次男は「怒鳴られても、めげない!」と、7年間頑張って働いた
良い友人たちもできて、一緒にユニバーサルスタジオや京都旅行にも出かけた
その後、職を2度変わり、最後に入社した会社は素晴らしい環境だったと思う
(次男が逝った後、京都本社の社長さんも自宅に来て拝んでくださった)
次男の無念「健康な体だったら90歳超まで長生きできたはず」「難病だということで差別されたりして、砂を嚙むような悔しさを味わったこともあった」「グルメを堪能し続けたかった(お高くて旨いものを食べる)」を晴らすために、私は体が動く限り(80歳までは)頑張って働きたい!
次男の「やり残したこと」を受け継ぐためにも!
PS. 定年退職後「家で畑仕事をしているだけでは退屈でしょうがない」と、再就職を果たしていた亡き父は、70歳頃からスーパーのパート勤めをしていた
スーパー関係の仕事なので、当時の公設市場にも出かけることがあったらしく・・・
職員が次男の肩を後ろから蹴った場面を見て、激怒した父は「ワシの孫に何さらすんじゃい!!」と抗議してくれた